~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (三)
章邯しょうかんは、鉅城を包囲していた。
彼が、この大きくもない城を、幾重いくえにも用心深く包囲し、攻城用の土木工事まで併用して、ゆくゆくの勝利への布石を完全なものにしていた時、瓢風ひょうふうのように楚軍が現れ、攻囲軍の前線をずたずたにし、狂ったように戦い続けてついに前線の将軍の王離おうりをとりこにし、蘇角そかくを戦死させ、渉間しょうかんを敗軍の中で自殺させるという、後方の本営にいる章邯にとっては信じ難い事態が起こってしまった。
棘原城外の彼の本営は、丘の上の民家が当てられていた。まわりが天日てんぴで干した煉瓦積みの塁で囲まれた大きな農家だった。家族や使用人たちは他に移っているが、五十頭ばかりのぶただけが残されていて、風向きによっては堪えがたい臭いが襲って来た。それらが、空腹になると、騒がしくないた。章邯は、まわりの兵士たちに、豕に餌をやれ、とそのつど命じなければならなかった。
この日の午後は、とくべつ寒かった。太陽はまるなり・・・・で出てくれているが、義眼のようで、熱っぽくも何ともなかった。章邯は体を動かさねばと思い、茶色っぽい塁壁の内側をゆっくりした足取りで、幾まわりも歩いていた。
そのとき、長子きんがついて来た。欣は、章邯に気付かせるために空咳からせきをした。章邯が振り向くと。欣は軽く立礼し、今度は足音を消して寄って来た。
「以下申し上げることで、お驚きになってはいけませぬ」
と言って、間を置いた。
(また咸陽かんようのことか)
章邯は、欣という男のそういう部分の有能さに助けられながらも、有能というものにも節度が必要だと思いはじめていた。
「王離どのは乱軍の中で敵兵に縄をかけられ、渉間どのは絶望してみずから死に、蘇角どのは突撃してきた敵将のためにかぶとぐるみ頭を割られて即死いたしましてございます」
章邯は、空から首すじにかぎでもひっかけられたように足もとが浮きはじめた。欣がすすみ出て章邯をささえた。ささえながら、楚軍が、全軍発狂したように襲撃してきたこと、その人数はわが軍のほんの一部程度にすぎなかったが、こんために将軍の前線はすべて風に散らされた落葉のように存在しなくなったということなどを要領よく伝えた。
(楚軍が?)
章邯は頭の中が白っぽくなり、無意味につぶやいた。楚軍が接近していることは欣の情報でくわしく知っていたが、しかしその総帥の宋義そうぎに戦意がないという情報も入っており、たか・・をくくっていた。
章邯にとって不幸なことながら、楚軍の内部までは知らなかった。内部に変革が」おこり、宋義が項羽という者に殺され、以後、総帥の座に項羽がすわっているということまでは知らなかった。
もっとも知ったところで章邯はその楚軍観を改めなかったであろ。項羽についての章邯や欣の知識は、定陶ていとうで章邯が敗死させた項梁のおいという程度でしかなく、なにほどのこともあるまいという固定観念があったからである。
その先入主は一挙に崩れてしまった。項羽観がくずれるのと自分の主力軍を失ったという報告とが同時に章邯に殺到したために、章邯の思考力は、停止した。頭の中に霧が漂っているように、何事も考えられない。
やがて、
「兵力がほしい」
とだけ、章邯は言った。鉅鹿の一戦で何千万という人間が死んだ。章邯の感情の中へはそれらが数量的消失としてしか入って来ず、配下たちの死に対する悲しみは湧きあがって来なかった。章邯は冷酷な男ではなかったが、しかし一瞬にして破滅の淵ぎわまで追い詰められて、思考力さえ奪われたようなこの段階では、兵力だけが思考の手がかりだった。退却するにせよ、決戦するにせよ、兵力がほしかった。
「敗兵を集めてみる」
それにはすぐさま四方に伝騎を発せねばならない。鉅鹿の戦場から逃げ散って方途もつかずに漂っている兵たちに章邯が健在だということを教え、彼らに士気をとりもどさせ、一手に掌握する。章邯の意志は、むろん楚軍を潰すにある。それには、章邯さえいれば楚軍が滅び秦がふたたび栄えうrという士卒たちの信仰の回復が必要だった。
「そのほうは、なんとか私がやる。欣よ、君はすぐ咸陽へ急行してもらいたい。皇帝に拝謁し、敗北の事実を言上し、兵を送っていただきたい、と申し上げてくれまいか」
章邯は、やっと行動のめど・・を得たようにきびす・・・を返し、本屋ほんおくに向かった。欣の返事を聞かなかった。
振り返って、欣がそこそこに立ちすくんでいるのを見ると、
「早く」
と言って、追い立てるように本営から出した。
20200310
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