~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (四)
使者長史欣は、一隊の軽騎を率いて咸陽に向かってけた。道は、はるかに登りになっている。函谷関をくぐり、ときに崖から転がり落ちそうになるような山峡の小径こみちを駈けに駈けた。関中盆地は、雲涯のむこうにある。ときに騎馬を用い、ときに舟を利用した。ついに咸陽に入ると、欣は宮門に入るために衣服をあらためねばならなかった。
まず自邸に入ると、妻妾さいしょうが驚き、
「もう、盗人ぬすびとたちは片付いたのでございますか」
と、口々に言った。これによって趙高の情報統制は、皇帝をくらましているだけdなく、市中にまで及んでいることがわかった。
「それどころか」
国がほろびるぞ、と欣はわめきあげようとしたが、しかし彼女らに真相を教えればつい喋るにちがいない。趙高の危害がかならず彼女らに及ぶ。
「いいや、いくさは、もうすこしつづく」
とのみ言い、服を着更えて馬車に乗った。
宮廷の司馬門に達し、衛士に向かって拝謁を申し出たが、彼らは何事かをおそれるようにして取り合わなかった。どの衛士も、欣の顔見知りの者たちだった。
「どうした」
と、欣は叱り、
「前線の章邯将軍からの急使でござるぞ」
と言ったが、衛士たちは沈黙し、知らぬ顔でいる。趙高の許可のない者を通してはどういう報復を受けるかも知れない。
いったん自宅へ帰り、思案し直した。まず趙高に会って許可を得なければならない。が、趙高に会えるような伝手つてを欣は持っていなかった。この点、欣は趙高の全盛期以前の官僚で、政情がかわってしまった今となっては、かつての彼の人間関係は何の役にも立たない。
「たれか、趙高どののお気に入りの人を知らないか」
と、欣は、翌日、伝手さがしをはじめた。が、事態が欣にとって困難になった。鉅鹿の敗報が、この日の午後、うわさとして咸陽の町に伝わったのである。いちでも、この話で持ちきりになった。欣の家の奴婢ぬひたちがそれを妻妾に伝えると、屋敷じゅうの騒ぎになった。欣は、何とか彼女らを言いくるめた。
うわさは趙高の耳にも入った。
さすがにこの敗報を皇帝に伝えないわけにはゆかず、すぐ禁中の奥へ行き、
「章邯をお叱りくださいますように」
と、言った。敗報については、ごく簡単に伝えた。帝国崩壊というぐあいに皇帝に認識されては困るのである。
趙高は、軍事に暗くはあったが、しかしこの段階ともなれば、章邯の軍隊が敗れた以上、秦もおわりだということはわかっていた。さらにはそれを破るほどに楚軍が強大になっているということは、つぎの帝国が楚人によって興されるという事も見通していた。彼は今生き残る事を考えている、ただ生きるだけでなく、つぎの楚帝国の貴族として残りたかった。できればこの咸陽のある関中の大盆地の王になりたい。関中王になるためには大功を樹てねばならない。二世皇帝の胡亥を楚のために殺せばよかった。
胡亥をたれよりも容易に殺せる位置に趙高はいる。しかし時機が要る。いつのことになるのかわからないが、楚軍がなだれを打って函谷関の内側に入る日、趙高はクーデタを起こして二世皇帝を殺し、その首を楚の将軍にささげることによって新帝国の地位を得たい。
20200310
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