~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (六)
鉅鹿の敗戦は章邯にとって致命的だったが、しかし常勝将軍だったという彼のかつての名声が、その傷口を次第に癒者いやした。章邯の名声を聞いて集まる敗兵や流民が多かったのである。
── 章邯将軍が健在なかぎり、秦の世は続く。
という見込みが、彼らにあった。
項羽も、さすがに章邯だけは軽んじなかった。鉅鹿の奇勝のあとも、勝利側の楚軍が消耗、疲労ともにはなはだしかったために、一歩進めて章邯と決戦する力などとてもなかった。このことが、章邯軍の回復に利した。
章邯は、戦をするのに、側近がじれったいと思うほどに手堅かった。
彼は鉅鹿の南西にある棘原きょくげん(河北省・平郷県付近)の城外から本営を移し、城をかためて動かなかった。
項羽も、鉅鹿の奇勝後、動きがにぶくなっている。鉅鹿城を去り、棘原城よりもの漳水しょうすいの南にまでさがって、そこに布陣した。
項羽軍には、悩みがあった。鉅鹿で捕虜にした十万ばかりの秦兵をどう食わせるかということである。彼らを飢えさせれば暴動を起こすし、かといって武器を与えて章邯軍と戦わせれば、いつ翻って楚軍にほこを向けるか分からない。この巨大な捕虜集団を後方に置くのはいい。しかし楚軍は前進して棘原を囲むわけにもいかなかった。後方から捕虜集団が楚軍に襲いかかるという懸念が皆無ではない。
「殺せばどうか」
項羽は口にこそ出さなかったが、言いだしそうな顔つきをしばしばした。
項羽の謀将の范増はんぞう老人は、会議のたびに、殺すな、と言う事を繰り返した。章邯軍の兵が投降して来るかも知れないというのに、今捕虜を殺したりすれば敵は絶望し、かえって士気がたかくなる。
項羽が鈍重になったのは右の事情が主因で、この意味では項羽軍にとっても鉅鹿戦の結果が重荷になったと言っていい。
一方においては、前哨戦程度の小戦こいくさが、無数に繰り返された。どんな小さな戦闘でも、項羽は馬を駆って前線へ飛び出し、陣頭で指揮をとった。項羽の姿を見ると、そのつど楚兵は鉅鹿で気ぐるいしたようにふるうのである。
戦うたびに楚軍が勝った。章邯軍はそのつど棘原城に逃げ込まざるを得ず、つねに傷は小さかったが、その分だけ章邯の評判が少しずつ下がり、項羽の名があがった。
しかし両軍とも主力は動かなかった。漳水をはさんで膠着こうちゃく状態が続いているといってよく、冬が過ぎ、春が来ても、この状態に変化がなかった。中原では、秦帝国に対し民心は離れきっていた。このなかにあって章邯軍が孤立を深めつつもなお反乱軍と互角の状態を保っているというのは、一種の偉観といってよかった。
これらの状勢とは別に、関中に向かって、楚軍の別働隊である劉邦軍が少しずつ前進している。このことが項羽をいらだたせつづけていた。楚のかい王は最初に関中に入った者を王とする、と約束しているだけに、項羽が章邯にひっかかって華北の野で釘付けされていることは、項羽の野心に即していえば、不利であった。
あるいは無駄、もしくは滑稽としか言いようがなかった。項羽が「章邯」という名で象徴される秦帝国のすべての兵力を漳水の北岸ににかわづけしているおかげで、劉邦は楽に泳いでいる。彼の軍というのは少数の雑軍しかない。それが秦の残存勢力のなかを、悠々と函谷関に向かって行軍しえているのである。項羽が、あぶら汗を流して劉邦を関中王にしようとしているようなものであった。
「そんなばかなことが、あっていいのか」
と、項羽の本営にやって来て頭ごなしに言ったのは。ちょうじょう将軍の陳余ちんよであった。
鉅鹿の一戦以来、諸勢力の指揮官はみな項羽の前に出ると仰ぎ見る事すら出来ないほどに慴伏しょうふくしてしまっていたが、この陳余というあばた面の四十男だけは、ことさら親しみを見せるつもりか項羽に対して友達言葉をつかったり、ときに先輩面をして、へたな冗談を言いつつ、忠告したりした。
項羽は、この男がやりきれなかった。范増も、
── 陳余のようなやつは、どこにでもいるものでございます。ああいう男に甘いお顔を見せ給うな。
と言った。
20200311
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