~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (七)
項羽は鉅鹿戦以前の項羽ではなく、この大陸の全反乱軍の総首領のような位置についている。かつての項羽のように感情を露わにすれば、陳余のような男はたちまち去って裏面でどういう画策をするかわからない。
陳余は、古くから反秦運動の志士であった。すでに述べたように、かつての盟友の張耳ちょうじと共に諸国に流浪し、首に懸賞金がついたこともある。しかし義兄弟の張耳が趙王を奉じて鉅鹿城でながく籠城ろうじょうした時、遠く城外で大軍を擁しつつ、これを救おうとせず、項羽の楚軍が鉅鹿攻囲中の章邯軍を撃破してから、べつに右のことをじもせず、水に帰った魚のようにしきりに術策を考えては項羽が主宰する会議に持ち込んで来る。秦の章邯将軍 (六)以前に項羽と面識があるわけではなかった。しかし百年の知己のように親し気に口をきくのは陳余一流の遊泳術のひとつで、他の諸勢力に対するちっとした政治であったであろう。
「あいつは、鉅鹿戦では少しも戦わなかった」
というのが、項羽が陳余を嫌うほとんど唯一の理由であった。項羽は人が勇敢である事を好みすぎている。そのことを常に人間の価値基準の第一に置いているために、陳余のいうことが常に腹立たしかった。
さんよ」
陳余は言った。
「あんた、章邯と戦ってばかりいなさる。はてもないことだ」
などと、この時も言った。
戦いはね、政治のためにあるんですよ、と陳余が言う。章邯とあんたの戦いには何の政治的な理由も無くなってしまっているじゃあありませんか、章邯も戦いすぎる、ばかです、と陳余が言った。
項羽は、陳余などに章邯を批評されたくはなかった。が、感情を抑え、范増をかえりみ、
「陳将軍と話せ」
と、押しつけて、奥へ入った。根が聡明な項羽は、陳余が、章邯に対する投降工作をしようとして許可を得に来ていることはわかっていたし、その必要も感じていた。が、項羽の気持でいえば章邯ほどの好敵手をそうそう外交の釣りばりで釣ろうというはなし・・・に、首をつっこみたくなかった。
「章邯に使いを出そう」
その手紙は自分が書こう、と陳余は范増に言った。陳余は、むろん私にだって章邯将軍の秦への忠誠心のあつさはわかっている、とも言った。
「しかし忠誠心を受けれる母体の方が腐りきってしまったは、どうにもなりませんよ。章邯はそろそろ自分の立場がわかりはじめているはずだ」
陳余はむろん咸陽における秦の帝室の内情に通じているわけではなかったが、秦以前の六国りっこく時代から治乱興亡を見すぎるほど見て来たこの策士は、雲烟うんえんはるかな西方の環境の空気が、なんとなくわかるのである。
20200311
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