~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (八)
「余さん、あなたは章邯への手紙と言うが、かつて彼と親交があったのかね」
范増が皮肉を込めて言うと、陳余は、たがいに顔を知らない、とかぶりをふり、「しかし「と右手の指を一本立てて、さらに左手の指をもう一本立てた。その種のジェスッチャは、戦国以来、縦横家や合従がっしょう家と呼ばれる連中が、その雄弁の援用として用いてきたものである。一本の指は章邯、他の一本の指はこの陳余、とうつもりらしく、范増が見ていると、単なる指が変に実在感をもっていわく・・・を帯びてくる。
「章邯と干戈かんがをまじえること、じつに久しい。もはや親友以上の仲といえるのではないか」
と、陳余は言った。
章邯しょうかん棘原きょくげん城にいる。
城壁にたてられたしん旌旗せいきはつねに整然と林立し、城内では軍規は乱れず、士気はおとろえず、食糧も、章邯のゆきとどいた手配りで欠乏することがない。
城外の警戒線も厳重で、彼らは敵の謀者の侵入を防ぐとともに、田畑を守っていた。
ある日、その警戒線の哨兵が、陳余ちんよの軍使をからめとった。章邯がその者に会い、手紙を得た。
名文であった。
まず、秦の歴世の名将の運命から説く。
今は昔のことながら、秦の白起はくき将軍(~紀元前二五七年)を想起されよ、と陳余は言う。白起の軍功はめざましく、南方ではえんえいを平定し、北方では馬服君ばふくくんの大軍を破ってことごとくあなうめにし、攻城略治の巧はあげて数うべからざるほどであった。ところが王(秦の昭王)によって白起はその年爵をうばわれ、咸陽から追われ、自殺を命じられた。
また近くは秦の蒙恬もうてん将軍(~紀元前二一〇年)を想起されよ、と陳余は言う。蒙恬は始皇帝の命を受けてせいを攻め、大功あり、次いで三十万の兵を率いて匈奴きょうどをオルドスに討ち、長城を補修して国境を鎮めた。でありながら、始皇帝の死とともに宦官かんがん趙高ちょうこうの策略にかかり、自殺させられた。
まぜ秦においてはそうなのか、と陳陽は言う、功績がありすぎると、それに酬いようにも土地がないために、法にかこつけ、誅殺ちゅうさつすることによって問題を片付けてしまうのだ、それが、秦の伝統的なやり方なのだ、あなたは秦ひとだからよくご存じだろう、と言う。
さらに陳余は、秦将の運命を歴史的に説いて現在に及ぶ。いま人心は秦を離れ、反旗を翻す諸将は日に日に増えている。しかしあなたの軍隊は逆に消耗するのみで日に日に減っている。これは、天が秦を亡ぼそうとしていることの一つの証拠である。
「実を言うと、私どもは、秦の宮廷に巣くっている宦官の趙高の行状を知っている」
と、陳余は言う。むろん詳しく知るはずがない。しかし陳余という練達の策士がかん・・をもってあてずっぽうに書いたことが、ぶきみなほど事実に似ていた。趙高が咸陽の宮中・府中を牛耳ぎゅうじってしまっている以上、章邯が誠忠であればあるほど趙高に憎まれ、軍功を立てれば立てるほど趙高にとっての邪魔者になり、結局は皇帝の命令であなたは腰斬ようざんの刑を受ける、あなたの家族は、かつての白起や蒙恬の家族と同様、皆殺しにされるだろう、と陳余は言う。
(そのとおりだ)
章邯は思った。陳余の言うところは予言や観測ではなく、すでに咸陽からさしてくる潮は章邯の足の裏までひたしはじめているのである。
今だけでなく在来の秦の政治もすさまじかった。功臣が、簡単に罪人にされた。章邯はもともと生命についての恐怖感の薄い男で、命ぐらいは欲しければ呉てやると思っていたが、しかしかつての秦の大臣や将軍がそうであったように、うその罪状を白状・・させられ、罪として殺されるのはどうにもいやだった。
陳余は、続ける。
「章邯将軍よ、今こそ諸侯としょう(連合し)軍の方角を転じて咸陽を攻めるべきです。諸侯とともに秦の地を分割して南面し、ゆくゆく(王の一人称)を称する身分になられるにがよいか、それとも罪人として腰斬されるのがよいか」
20200312
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