~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (十)
会見の場所は、
殷墟いんきょ(河南省)
ということに、項羽は指定した。
章邯の側から言えば、棘原城を出て南へくだり、三戸という漳水しょうすいの渡し場をへてさらに南下すれば殷墟にいたる。
殷墟とは、古代の殷王朝の遺跡という意味である。殷墟という考古学的遺跡そのものを指す地名が、すでにこのしん帝国の時代から存在していたことが分かるのは、『史記』の記載のおかげといっていい。
殷王朝というのは、紀元前一六〇〇年から一〇二八年の間とされるが、元来は中国史上の神話時代のように扱われ、実存感が薄かった。
殷王朝が実際に存在したということが確かめられる端緒になったのは、一八九九年(明治三十二年)劉鶚りゅうかくという学者が、北京ぺきんの薬屋で、「竜骨」と薬屋が呼んでいる動物の古い骨を買い、彼がそこにえたいの知れぬ文字が刻まれているのに驚いた瞬間からであるといっていい。これを古い文字の研究家である羅振玉たしんぎょくらが読んでみると、『史記』に記載されている殷王朝の王の名が出て来たために、それまで知られていなかった殷代の文字であることが推定された。この研究が、いわゆる甲骨こうこつ文字の研究として日本の貝塚茂樹博士らに受け継がれてゆくのだが、ともかくも薬屋で「発見」された時に、薬屋の証言で殷墟付近から出土するということがわかり、やがて学者たちの手で多量に発掘されるようになった。
殷墟そのものが考古学的に発掘されるのは、一九二八年、北伐に成功して北京に入城した国民政府軍によってである。近代中国における革命の成功期に古代を確かめる考古学的発掘が行われるというのは、別の課題として興趣がある。国民政府は一九三七年の日中戦争の勃発まで十五回にわたって発掘調査を行い、のち国民政府が大陸での革命戦に敗れてからは、それらの出土品を台湾に移した。
その後、中華人民共和国が、革命成功の翌年(一九五〇年)大々的に殷墟の発掘を再興し、青銅器その他の重大な発掘成功を次々に発表してる。殷という遠い時代にすでに驚嘆すべき文明が存在したという事は、中国人の民族的自信の回復にあるいは微妙な効用をはたしていると言えるかも知れない。
殷墟には宮殿、住宅などの遺跡も多いが、墳墓も多い。新中国になって発掘された王室の王墓には、多くの殉葬者が骨になって横たわっていた。王の装身具をつけて生きながらにあなうめされた侍臣の骨もあれば、装身具など一切着けずに、頭部を切り放された人骨が、一つの墓に、束ねるようにして排列されているのも発見された。これら殉葬者の骨が何をあらわすのか、十分にわかっていない。
この状態から見て殷とそれにつづく周を奴隷制時代であるとしたのは郭沫若かくまつじゃくであったが、この解釈困難な大量殉葬が、奴隷主の死に、死後までつきあわされる奴隷たちであるとすれば、奴隷と言う財産をなぜこのように浪費したのかという疑問が湧く。殷の当時、大陸の人口は少なく、王国の軍隊でも兵員は数千人にすぎなかったろうということを考えると、殉葬のためにそれほどの奴隷を殺せば「奴隷制」成立しなくなるのではないかと思われたりする。
あるいは異民族の戦時捕虜であったろうかとも考えられる。殷代のこの大陸は、多種類の民族が雑居し、ときに抗争していた。戦時捕虜に対しては、技術のある者はこれを奴隷にするとしても、そうでない者は食糧の分配能力から考えて、王の墓にしてしまうほうが経済的であるかも知れなかった。
殷の時代、権力者の大墓は、必要があれば入口を開く仕掛けになっていたらしい。既存の墓においても、御供物おくもつをそなえるように次々に殉葬者を阬しては、地下をにぎやかないしてゆくというかたちがとられた。いずれにしても、殷の墓のように人間が大量に阬されるということは、地球上の他の古代世界には例を見ない。
項羽の時代の殷墟いんきょは、近在の人々の伝承でもってここに殷の古都があったとされているだけで、この当時、それ以上のことは何も知られていない。
この黄土層地帯の景観の骨格は、西方の高地がしだいに低くなりながら起伏をくりかえし、多くの丘陵と谷間をつくっていることであった。殷墟にしぐ北方に、項羽らもやがてわたらねばならない洹水かんすいが流れている。洹水はときに氾濫するが、しかし殷墟の中心部をなす── 殷の宮殿のあった ──小屯シャオトンの岡だけはそれにおかされることはない。項羽の時代から二千百余年後、発掘によりこの岡が殷の宮殿のあとであることがわかったが、項羽がこの岡を上った時は、夏草の茂りだけがめだったにすぎない。
ともかくも項羽は、この岡の上を会見場所とした。
20200313
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