~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (十一)
章邯しょうかんは、降将としてこの岡の道を、汗ばみながら登った。従えているのは、きんのほかに、董翳とうえいだけである。
「あの樹は、にれではないか」
と、章邯は岡の上を指さした。緑青ろくしょうを溶かしてはいいたような色で、林が丘の上を淡くふちどっている。欣は見あげてみたが、楡かどうかはわからない。
(この将軍は、感情がどこにくっついているのか)
欣は、振り返った章邯ののんきそうな顔を見て不思議に思った。楡であれ、何であれ、その岡の上の林の中で行われるのは、降伏と受降の儀式なのである。欣は、章邯が、あるいは足も揚げられないほどに悲しむのかと思ったが、陽気とはいえないにせよ、荷を売り終えた行商人のようにゆるんだ顔をしていた。
もっとも章邯の側から言えば、理由がある。かつて趙高の詐略によって自殺させられた蒙恬もうてん将軍が、オルドスの疎草そそう地帯の匈奴きょうどを北方のゴビへ押しやり、彼らが再び来襲しないように、オルドスの地に楡の木を植え、長大な樹林の帯をつくったという故事があり、章邯は岡を登りながらそのことを思い出し、そうたずねたにすぎないが、この場になって、ごく日常的な顔で樹木の種類に関心を持つなどということは、章邯の血の薄さと無縁ではないかも知れない。
岡の中腹で、章邯は斤と董翳を待たせた。
あとは、ひとりで登った。小径の両側には、楚兵が堵列とれつしている。楚兵の中には憎しみを露わにしている者もあれば、
(これが籌算ちゅうさん神のごとしといわれた章邯将軍か)
と、あこがれるような目で見る者もいた。

項羽は、林の中に皮の敷物をしいて章邯を待っていた。
章邯が剣を脱しようとすると、項羽は大声をあげてそのままにされよ、と言い、彼にも項羽と同じ敷物を与えた。降将のあつかいでないばかりか、項羽が、まだ少年のにおいの残る唇をひらいて、私はあなたを尊敬している。とその戦いぶりをたたえた時、章邯は別人のようになった。
章邯の心をにわかに悲しみが襲い、しばらく少女のように泣いた。秦の帝室で、たれが項羽のような言葉をかけてくれたであろうか。
「私は、秦のために戦えば戦うほど、宮廷での罪が重くなった。宦官の趙高をご存じであろうか」
と、項羽に訴えた。章邯はおよそ人に自分の窮状を愁訴しゅうそするような男ではなかったのに、はじめてまみえた敵将の前で取り乱してしまったのは、降将としての異常な感情のたかぶろもあったであろうが、ひとつには項羽の人柄に、章邯をそうさせてしまう何かがあったのに違いない。
さらに項羽がいかに章邯を重んじたかについては、自分の配下にはしなかったことでもわかる。
雍王ようおうという呼称の王にした。
項羽は、形式上は楚のかい王の家来の上将軍にすぎず、他人を勝手に自分より上位の「王」にする権能などなかったが、実際には彼は楚王の上位にあるにひとしい、楚王に対しては事後承諾をもとめればよかった。
雍王である章邯は、項羽の本営にとどめた。旧秦軍二十予万に対する指揮は、あらたに楚の上将軍に任命した欣にとらせた。
20200313
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