~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (十二)
項羽は、章邯と言う拘束から脱した。
あとは全力をあげて西進するばかりであった。函谷関をやぶり、関中に突入し、秦の帝都咸陽をくつがえさねばならない。
黄河のほとりに出た。
この華北・華中の文明をつくった大河は、この大陸に大きくの字をえがいて流れている。非漢民族地帯であるオルドスの漠野から流れて来たこの水は、南流して関中盆地の入り口である潼間とうかんにいたり、ほぼ直角に東へ折れて流れ、中原の野をうるおしつづけているのである。
項羽軍は、黄河の流れに沿って西進した。流域の食糧貯蔵の官倉をことごとくおさえて食糧を得つつ進み、洛陽らくようをへて新安しんあん(河南省新安)にいたった。
(なんと、ゆたかなものだ)
と、項羽は、自分の故郷の水っぽく黒い土の色とはまったくちがった黄土地帯の田畑を見つつ、この大地に豊穣を感じた。漢民族の文明は黄土地帯において盛衰を繰り返して来ただけに、楚人である項羽は、土の黄色っぽさを見るとどことなくこれこそ文明の地帯だと思ってしまう。
黄土は、北方の半乾燥アジアのちり・・が風に運ばれて堆積たいせきしたもので、粒子はこまかく、掌にすくえば軽くてさらさらしており、層は深さ平均二、三〇メートルもある。ときに七〇メートルにも達する。
黄土は食物の成長に必要な鉱物質を多量に含んでいるのと水ちがいいために農業にもっともよく適して、この大陸に巨大な農業文明を育てたが、一面、水蝕すいしょくされやすい。水蝕されると、ほぼ垂直の谷壁をつくって陥没し、平地に巨大な穴(あるいは谷)をつくってしまう。
新安には、水蝕によってできた黄土谷が多い。ときに転落すれば命を落すほどに深い谷があった。
項羽軍がこの地帯にたどりつくまでに、かつてないほどに軍紀が乱れた、兵士のあいだでの喧嘩、刃傷、乱暴沙汰が無数におこり、軍隊秩序を維持できないほどの隊もあった。
項羽軍の楚兵たちは、もと流民である。かつて秦の労役に徴用されなかった者はほとんどいないといっていい。労役中、秦兵が監督したが、その暴慢ぶりは度外れのもので、楚人を奴隷のように扱い、ささいな落度でも死ぬほどに棍棒でなぐりつけた。その恨みが、楚兵のあいだで充満しており、立場が逆転した今、以前にひどい目に遭わされたのと同じやりかたで新附しんぷの秦兵に復讐しはじめたのである。
楚兵は、秦兵を奴隷扱いにした。秦兵の休息中を楚兵が襲ったり、わずかでも反抗の色をみせたりすると、よってたかって折檻せっかんし、ときに死に至らせたりした。このため逆に秦兵の間で、憎悪と狐疑がうまれ、やがてそれが高まり、反乱への願望が、小単位ごとにささやかれるようになった。
「われわれは、どうなるのか」
という狐疑が、秦兵を動揺させつづけている。彼らは楚軍とともに、その郷国である秦(関中)に攻め入るのだが、この点についても気がむかなかった。といって秦の兵には秦帝国への忠誠心などはさほどにはない。むしろ楚人の関中入りがおそらく成功すまいという見方の方が強く、楚人が関中の秦軍に敗れた場合、彼ら楚人はふたたびこの帰順秦兵を捕虜として中原へ連れ去り、関中にいる帰順秦兵の家族は、秦帝国の手で殺されるにちがいないと猜疑さいぎしていた。
「いっそ、反乱をおこすか」
というのが、この種のささやきの果てに繰り返される言葉だった。なにしろ帰順秦兵は二十余万というぼう大な人数で、反乱は見込みのないことではない。しかし秦兵は素手であった。関中に入れば兵器を渡すとうことだったが、今は丸腰である。その上、反乱をおこすための指導者がいなかった。
まずいことが起こった。ある夜、秦兵の宿営地を巡回していた楚人の将校がこの種のささやきを聴いた、というのである。この聴き込みは、項羽にまで上申された。
范増はんぞうが、驚いてしまった。
秦兵というのは、歴史的にも非秦人にとって強兵という印象が強く、捕虜になっても、恐怖を感じざるを得ない。その上、二十余万という人数はいかに丸腰でも看視側の楚軍より多く、捕虜として連れ歩くには荷が重すぎた。
項羽が決心した。
「章邯、長史欣ちょうしきん、それに董翳とうえい、この三人だけは大切にしたい。
「欣と翳それに章邯は、秦兵に接触させるな」
と、命じ、范増にいっさいを話した。
范増は、黥布げいふを本営に呼び、密議した。
以上の事態は、この大軍が新安に到着する直前までのことである。
20200314
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