~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (一)
この大陸については、よくわからないことが多い。
「江南」
と、後に呼ばれる揚子江以南の地は、この時代(紀元前二百年代)、北方の中原ちゅうげん(黄河流域)の人々からは、異国めいた地域として見られ、そこにいる人々(呉とか越、あるいは楚)は、異民族と見られていたにおいがある。
むろんこのあたりの人々も、北方で発明され、発達した漢字を導入し、意志の伝達に使いはじめている。その文字によって、民族詩集も出来た。北方の漢民族の『詩経』に対し、『楚辞そじ』である。楚とは、江南の一地域をさす。他の文化も、受け入れた。たとえば都市を城廓でかこむという中原の方式である。
しかし中原とは異なる点の方が多い。中原の人は騎馬民族との混血のせいもあるだろうが、長身の者が多い。顔は長い。この南方の人々は圧倒的に矮人ちびが多く、顔はまるく、二重まぶたで、土俗は──漢民族には考えられないことだが──文身いれずみをした体を持っている。
古代、中原では、江南の連中のことを蛮族とし、
荊蕃けいばん」と呼んでいた。荊は一字だけでも地域を表す。
その土俗は、上層の者は北方の漢民族のふうにならっているが、よりつよく古代性を残す土民たちは文身(多くは竜をっている)だけでなく、断髪している。この断髪一つでも、漢民族と決定的に違う。
まわりを異民族にかこまれた中原の漢民族は、ぞく(髪かたちと服装)をもって文明の基礎としている。さらに言えば俗の基礎は、服装よりもさらに髪かたちの方が重い。たとえば漢民族圏のまわりの草原で馬を飛ばし、群羊を追っている騎馬民族たちは、その仲間によって多少のり方の差はあるが、弁髪であった。漢民族は髪をながくし、頭上でこじんまりとたばねている。いわゆる結髪である。
江南の蛮族・・たちの断髪というのは、剃るというに近い。ついでながら十三世紀という後世のことになるが、モンゴル人が漢民族を征服してげん帝国を建てた時、揚子江以南の住民のことを、
蛮子マンツ
と呼んだ。元来、漢民族から野蛮の極なるももとされていたモンゴル人から蛮子と呼ばれては、この南方の人たちも立つ瀬のない思いだったであろう。この十三世紀の頃には、江南はゆたかに漢民族化されている。しかし、異民族であるモンゴル人が漢民族地帯に入った時、揚子江以南の土俗が少し違うと思い、そのである部分において蛮子と呼んだのに違いない。十三世紀において「異」であるとすれば、紀元前のこの時代においては、はるかに濃厚に蛮子であった。
第一、言語が、はなはだしく北と異なっている。北から漢字を導入しても、一字々々のおんが江南的で、このことは二十世紀になってもかわらない。近世になっても、北部中国人はおそらくみずからを正当の漢民族であると思い、この地方を南越とか百粤ひゃくえつとかよび、この地方(たとえば広東かんとん省)に移住すると、自分のことを唐人たんれんと称した。

古代、この地方は北と風俗を異にするだけでなく、多くは湖畔や海岸に住み、水に潜って魚を った。とある。北部の漢民族の特徴は、、ごく院生に至るまで水を怖れ、水泳が出来ず、まして江南人の民族的得意芸ともおうべき潜水が出来ず、逆にそういう所業を野蛮とした。古代、稲を持ってはるかに東海に うか び、 の島々に来たのは、この南の呉越の人だったろうと想像されたりしている。
もっとも、潮流の流れで、一部は朝鮮半島の南部にも達し、そこから 玄界灘 げんかいなだ を越えて倭の島に達したという経路も含めてのことである。有名な『 魏志 ぎし 』倭人伝における倭人の風俗については、「男子ハ大小トナク背面ヲ げい (いれずみ)シ、身ニ ぶん (いれずみ)ス。・・・断髪、文身シ、以テ 蛟竜 こうりょう ノ害ヲ避ク。今、倭ノ水入、好ク沈(沉)没シテ魚蛤ヲ捕フルニ文身スルハ、亦以テ大魚水水禽ヲ厭スルナリ」とある。右の倭の風俗と、揚子江以南の荊蕃のそれと うり 二つのように似ている。もし関係あるとすれば、この地の風俗は、はるかに海を越えて日本に来たといっていい。
さらにこの大陸における北方の中原と揚子江以南とは、主食を異にしている。北方の黄河流域は稲の適地でなく、従って米食をしない。江南──揚子江・ 銭溏江 せんとうこう の流域──は気候が温暖多雨で、この大陸では、 豊沃 ほうよく そのものの水田の適地である。ここへ稲を持ちこんで来た荊蕃たちの人口が、北を圧するばかりに えて行ったのも当然であろう。
この大陸の歴史では、 いん や周という古代国家の時代は、人口も少なく、その集中も黄河流域に限られた。しだいに人口が増え、各地が開拓され、「中国」がはじめて大きな領域を占めにいたるのは、いわゆる春秋戦国時代(紀元前七七〇~同二二一)からである。多くの国がならび立ち、互いに争った。この時代になると、すでに、米食民族が、揚子江以南の地域ごとに割拠し、それぞれ国家を形成し、 中国人 ・・・ として他国と戦いはじめた。この江南の勢力は三ヶ国あった。 、それに えつ である。三国にはわかれていても北の漢民族からは似たような一ッ地帯と見られ、においの異なる連中として扱われた。
楚、呉、それに越は、ほぼ同民族とみていい。
中原の漢民族からみたこの南方蛮族は、ごく一般に見て漢民族とは性格も違っていた。『楚辞』に見られるように感情が豊かで、激情家が多い。水田のほとりで踊ったり歌ったりすることも好きな上に、男女の愛の形も北の比べてすべて華やかであり、ときに野放図であった。
この江南三国の ふう の特徴として、
「楚の艶麗な舞踏。呉と越の歌謡」
などと古来言われた。
2019/11/16
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