~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (二)
戦いの風俗も北とはおのずからちがっていた。江南の連中は蛮性を残しているがために勢いづけば火を噴くように剽悍ひょうかんに戦うが、戦術に計画性が乏しく、戦勢が困難になると士気沮喪そそうして崩れやすい。偶然、この習性は、江南人の血液的遺伝が濃厚かとも思われる倭の島々の長い合戦の歴史からみた特性にも通じている。
それでも人口の多さでもって、春秋戦国の頃には、江南の楚は北方の国々と大いに張り合った。
さらには同じ江南の呉や越も、弱小ではなかった。ときに北方諸国との戦いは、南北争闘の形態をとったりした。しかし西方にしんが巨大になるに従って各国が次々に倒され、楚もまた紀元前二二三年に滅ぼされ、その二年後に秦帝国が出現した。
とりわけ楚の滅ぼされたかたは、悲惨であった。
最後の王である懐王かいおうはお人よしのだまされやすい男で、秦の謀略工作に乗りに乗って手玉にとられた。そのあげく秦に捕らえられ、秦都に監禁されたりした。馬鹿がなぶられているような恰好であった。懐王はその後、身ひとつで脱走し、再び捕まるということがあったりして、ついに秦都で死んだ。秦は遺骸になった懐王を楚に送り返した。楚人はみななげき、いきどおり、秦に対する復讐ふくしゅうを誓った。
── 楚をそこまでなぶるのか。
という感情は、楚人であればこそであったろう。
    三戸といえども、秦を滅ぼす者は必ず楚ならん
という言葉が、当時はやった。
項羽こううはその楚人である。

「項」
というのは、地名(河南省項域)でもある。
項氏はもともと楚の貴族で、古い時代、項という土地にほうぜられてその領主となり、大いに同族の人口が増えた。この一族が地名をとって姓としたのが、項氏である。
秦が強盛になって、楚を含めた六国りっこくが衰え、とくに楚がうける圧力がはなはだしくなった末期、楚軍を指揮して国運をかろうじて支えたのが、項氏から出た項えんという将軍だった。名将項燕の名は秦を憎む人々の間に喧伝され、ときに護符のような印象をさえ与えた。戦って勝っただけでなく、部下を可愛がったということも、その名声の肉付けを厚くした。項燕が死んでもなお、秦を憎む楚人の間では、
── 項燕将軍は死んではおられぬ。草莽もうそうの間に雌伏しふくし、秦を滅ぼす機会をうかがっれおられるのだ、という伝説が流れつづけていた。
楚には、水景が多い。
長江が支流をうみ、湖をつくり、山には緑が多く、春など、朝に夕にもや・・がたちこめる。
── 楚の山河には秦へのうらみが湧きあがっている。
と、言われた。
ちなみに、秦に対する最初の反乱に起ち上がった陳勝ちんしょう呉広ごこうという農民もまた楚の遺民であった。
いうまでもなくこの時期には楚という国家はすでに存在せず、地名になっている。始皇帝は立国を滅ぼした後、封建制を廃し、郡県制をとり、中国大陸という漢民族の広大な居住地を行政区分して、三十六郡とした。郡の下には、県を置いた。いうまでもなく、郡が大単位であり、県は小単位である。かつての楚国の地は。南陽郡、南郡など三つばかりの郡名のもとにおおわれた。楚の遺民は、始皇帝の人民になった。帝国の名のもとに役使えきしされ、長期の労働や軍役に駆出された。陳勝・呉広も仲間の百姓たちと共に辺疆へんきょうの兵士として使われるべく歩きつづけているうちに仲間をあおって反乱に起ち上がったのだが、このとき陳勝は天下に呼びかけるにあたって、
「おれたちは無名の百姓にすぎぬ。この名では天下はふるい立つまい」
と、同志の呉広に相談し、陳勝自身は「扶蘇ふそ」と称することにした。扶蘇はいうまでもなく始皇帝の長子である。ただし宦官かんがん趙高ちょうこうの謀略で自殺させられてしまっているが、天下の人々はそこまでは知らない。扶蘇は父の始皇帝のように暴戻ぼうれいでなく、つねづね父の皇帝を批判していたといううわさを、陳勝は利用した。さらに、彼は相棒の呉広に対し、
「お前は、楚の項燕将軍だということにしよう」
と言った。亡楚の項燕将軍はすでに故人ではあったが、その名がこういう場合に利用できるということからみても、この将軍の名声がいかに大きかったかがわかる。
2019/11/17
Next