~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (三)
この時期、揚子江に近い町で、
「おれは、大きな声では言えぬが、項燕将軍の子だ」
と、ひそかに仲間たちに素性を明かしていた五十男がいる。
項羽の叔父の項梁こうりょうである。自然、項羽は故将軍の孫ということになる。本当にそうであるのかどうか、誰も確かめることは出来ない。中国は古代にあっても大家族制であり、楚の名将の項燕将軍ともなれば三百人、五百人という家族を抱えていたであろう。項梁という五十男がその家族の一員だったことはほぼ間違いなく、ともかくも貴族出身らしい典雅な容貌と身ごなしと、北方的な文字の教養を持っていた。
楚の末期には、宮廷が多くの貴族やその大家族群とともに、諸方を流浪るろうした。項梁も流浪した。
「故郷は下相かしょうである」
と、項梁は言っている。今の江蘇こうそ宿遷しゅくせん県の西方にある小さな町で、しょうすい水という川が灌漑かんがいする地帯であり、町はその下流にある。相水の下流ということで、下相という。楚ぜんたいの旧版図はんとからいえば東南角にかたよっている。戦国末期の乱世の中で、この下相が項一族のうちの一派の落ち着き場所だったことはたしかで、項羽もまたこの下相で生まれた。楚が亡んだ時、項羽はわずかに十歳であった。父は、幼い頃にくなった。
叔父の項梁に引き取られたために、項梁が父親代りであり、同時に家庭教師でもあった。
叔父に連れられて各地を転々とした。ついでながら項羽のあざな(よびな)のほうで、名はせきである。この点、「荊蕃」である楚人ながら、中原の漢民族の命名法による名を持っている。やがては項羽の敵になる漢の劉邦りゅうほうが、漢民族の居住地に生まれながら、劉卑賎ひせんのためろくに字も持っていなかったことを見ても、項羽が荊蕃とはいえ中原ちゅうげんの文化を十分に受容していた家の子らしいことがわかる。
むしろ荊蕃の良家のほうが中原の文化を濃く受け、中原でも、劉邦のような貧家に生まれると、中原紳士としての装飾が希薄であるのかもしれない。この多人種が混住している大陸にあっては古来、人種論は問われず、中原の文化にさえ参加すればすでに「蛮」ではないとされた。この稿の冒頭に、江南の人種について触れながらも、そのことについて「よくわからないことが多い」としたのは、ひとつにはこの大陸においては古来人種論はさほどの意味を持たないということも含めている。たとえば項梁や項羽が、中原の名前を持ち、中原の服装で居さえすればそれですでに蛮人ではないとされた。ただ項羽の性格を見ると、いかにも江南の荊蕃の若者という感じがしないでもない。
項梁は十歳から育てた項羽を可愛がった。項羽は敏捷びんしょうかん・・がよく、そのうえ途方もなく腕っぷしが強かった。その腕白ぶりのひどい時は、保護者が項梁でなければとても手のつけられぬものだった。
項梁もただの古典的な容貌を持った紳士というだけの男ではなく、かつて人をあやめたこともあり、暗い無法者の社会ともつながっていた。彼が項羽を連れて転々としていた理由には、楚の遺臣だったということよりも、むしろ被害者の遺族の復讐を避けるということのほうが大きかった。
この流浪の中で、項梁は、この甥に文字を教えた
「こんなものがおおぼえられるか」
と項羽はそのつでど駄々をこねた。
この時代、楚人にとって漢字はおぼえにくいものであった。項羽が十歳の頃秦帝国が出来上がって、それまで地域のよってまちまちだった漢字を整理し、一大統一を行ったのだが、項梁の教養は、多分にそれ以前の楚のものである。楚だけにある独特の文字も教え、秦の文字も教える。
「同じ意味であるが、これは楚の文字である。こちらはあらたな秦の文字である」
などと教えられれば、項羽ならずとも混乱してしまう。
そのうえ、文字の書き方が、地域によって異なる。とくに江南── たとえば楚──は他の地域とひどく違っていて、漫画を描くように鳥あるいは魚のかたち・・・といったものを文字に嵌入かんにゅうし、装飾性をもたせる。このことは、楚の文化の遅れをあらわしているといえるかどうか。文字は本来、意思伝達や事務上の道具として使われる。この江南の文字における多少の絵画的傾向は、機能性にやや欠けるという点で中原の進化より遅れているかも知れないが、しかしこのことは江南の土俗における呪術じゅじゅつ性と関係があると見れば、単に風土的なものであるかも知れない。一方秦は騎馬民族との雑居地帯というべき未開地よりおこったが、早くから法家ほうか思想という簡潔な合理主義による国家運営をとっていたことと濃厚に関係があるのか、文字の書き方はきわめて簡素かつ実用的で、どの文字も企画性の高い方形をなし、憶えるにも読むにも、他地域より簡単といえば簡単であった。
2019/11/18
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