~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (五)
この叔父とおい・・が最後に腰を落ち着けたのは、呉中ごちゅう(蘇州)の町である。
呉中は春秋の呉国の旧都で、呉国が滅んでからも、単に「呉」といえばこの都市のことを指した。
はるかな後世、この呉の発音が漢籍や経典とともに東方の朝鮮南部や日本に伝わって呉音ごおんとなり、また絹織物をつくるこの土地の方式も伝わって呉服と呼ばれたりした。
中原から見れば呉人はあるいは南方の蛮族かも知れなかったが、しかし広義の呉の地域というのは揚子江と銭溏江の二つのデルタを占め、稲作の最適地として大陸においてはもっとも豊沃ほうよくで、人口も多く、さらには都市の呉中は大地のあぶらともいうべき以上の後背地と水運の便のとさによって、秦の時代といえども華やかな繁栄をみせている。
「このにぎやかな町で、すこし根を張ってみよう」
と、項梁は項羽に言い、言動に注意させた。人心をろうとする者は人に嫌われることがあってはならないのである。
項梁は多少の財は持っている。
それに学問もあり、世間の話題に富み、よく人の世話もした。このためたちまち町の顔役になり、
「何事も項梁どのに相談し、その言うことに従っていればまず間違いない」
と言われるようになった。その存在は、一種の遊侠の親分に近い。
項梁は町の顔役として、秦の郡治ぐんちの役所や県治の役所にもよく出入りした。このあたりの郡は会稽かいけい郡で、かつての呉や越の地に相当するほどの広大な行政区をおさめている。この秦時代における殷賑いんしんぶりは、戸数にして二二万三〇三八戸、人口でいえば一〇三万二六〇四人というほどのもので、会稽郡一つに二十六もの県がおかれている。
会稽の長官として、秦帝国は殷通いんつうという者を派遣してきている。その管轄地域の広さを、つい二十年前までの封建時代の感覚でいえば一国に等しく、長官はかつての国王といえるような勢威もある。
「殷通は、王でしょうか」
項羽は、叔父に聞いたことがある。
「王ではなく、官だ」
叔父は答えた。秦には、封建割拠の王というものが存在しない。
「王と官は、どのように違うのです」
「似てはいる。しかし違う」
そのあたりの機微が面白い、と項梁は、秦の始皇帝が発明したこの一大官僚組織というものの説明を項羽にした。王ではないことの一つは、かつての王が私有したような軍隊も持たず、地方駐在の国軍の監督をしているだけの存在だ、と言う事である。
かつての王は怠けていても家臣がなんとか切り盛りしてくれたが、秦の司法長官はそうはいかない。
彼らは始皇帝の権力の代行者として管轄地の人民にのぞむ。彼らから租税を取りたてる。それをかつての王のように自分のものに出来ず、経費分を差し引いてすべて始皇帝のもとに送らねばならない。
「官とは、給料でやとわれた王ですか」
と、項羽は聞いた。彼はハイカラな官というものより、古い王の方が好きであった。
「まあ、そうだ」
叔父はうなずいた。
地方長官の仕事はいそがしく、また始皇帝の股肱てあしである以上、働かざるを得ない。租税の取りたてが鈍ければ始皇帝から一片の辞令でめさせられるのである。
が、租税は取りたて過ぎると、税を作るもと・・である農民が逃げ出してしまって、かえって、減収をまねく。この間の手加減はじつに難しく、これらの地方長官やその配下の吏員だけではとても出来ない。
結局は地方々々の有力者を懐柔し、人民とのあいだの調整をやらせるのである。郡役所から見た場合、呉中における有力者の一人として、項梁がいた。
「かつての王の時代、わしのような人間は必要でなかった」
と、項梁が言う。わしのようなというのは、役所と人民の間に立って双方の利害を調整し、そのどちらにとっても結構な結果になるように奔走する町の顔役のことである。 
2019/11/19
Next