~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (八)
この報が、呉中の町をけまわった時には、
「長江(揚子江)の北は、流民と反乱兵で満ち満ちている」
という表現になっていた。
「秦軍も、どんどん反乱軍へ寝返っている」
という報もあった。すべて、少しずつ事実であった。
秦軍といっても、すべての秦軍に皇帝への忠誠心があるわけではない。秦の固有の軍隊はさすがに旗を翻さないが、各地の守備部隊というのはそれぞれの土地の兵を徴募したもので、かつてのせい 人であり、趙人であり、燕人であり、あるいは楚ひとであったりする。彼らのはらの中のどこをき探しても、「皇帝」というなじみのない新語に対する崇敬心も神秘感覚もなかった。ここに至ってみれば、始皇帝の多くの失敗の一つは自分の称号について、伝統のない新語を造ってしまったことであろう。
「秦といえば西戎せいじゅう──西方の野蛮人──のたぐい」
と人々は思っている。それが新語の皇帝と称して天下を歩きまわったところで、かえっていかがわしさが増すばかりであった。が、いかがわしくはあっても始皇帝の生存中は、その強烈な統御力と、彼が率いる固有の秦軍の強さでもって天下はおそ れ伏しなびいていた。
いまひとつ、始皇帝の失敗は、すべての人民を自分の私物であると思い込み、さかんに駆り立てたことであろう。天下に無数の労役現場が出来たが、それがそのまま流民軍になり得る生活条件を持っているという事に、彼は気づかなかった。まして彼の後を継いだ若い胡亥に理解できるはずがなく、彼は父の時代以上に労役の大動員をおこなった。父の仕残した巨大な陵墓を突貫工事で仕上げねばならなかったし、父が未完のままで死んだ阿房宮あぼうきゅうも急ぎ完成させねばならない。
天下は人夫だらけになった。

項梁は、後に蘇州と呼ばれるようになった水と緑とせんの建物の美しい呉中の城内でしずまっている。しかし彼の幕僚たちは四方に奔っていざという場合の組織を固めつつある。
「また何か大きな葬式があるのか」
と、あわてて聞き返す男もいたに相違ない。幕僚たちはいちいち入念に説いてまわった。
「今からやるのは葬式ではない。もっと愉快で、とうほうもなく大きなことをやるのだ」
秦を倒す、とは言えない。まだ秦帝国の行政と治安組織が厳乎げんことして江南の地をおさえている。ただ呉中の世話人として項梁が言えることは、自衛のことであった。揚子江の北の方できかえる様に跳梁している各派の流民軍が、もしこの豊かな呉中を襲ってくればどうなるか。
「いや、襲ってくるのだ。それも近いという確報がある」
流民軍は、兵食の補給に困っている。当然、揚子江を三波にわたって、この食料の満ち溢れた江南の地を襲って掠奪りゃくだつするか、あるいはそれより利口ならここを本拠として割拠し、秦そのものと対峙たいじの勢をとるか、いずれにしても江南の地を忘れて彼らが他へ走りまわることはあるまい。
「来れば女どもは犯され、壮夫は殺され、財宝はられ、城内ことごとく火にされる」
このことも、妄誕もうたんではない、たれもが、納得できる。必然のことわりとして自衛せねばならなぬ。いま自衛軍を組織中だ、というのが、項梁の幕僚たちが駆けまわって告げている口上である。自衛には、大将が要る。
桓楚かんそさんがいいのだが」
と、幕僚たちはひとことは言った。桓楚という男はこの町のやくざの親分で、顔役としては項梁と似た存在だった。ただ最近刃傷沙汰にんじょうざたを起こして、所在がわかりにくい。
「いや、やへり、項梁様がいい」
と、わざわざ幕僚の口からその名を出さずとも、たれもが言った。葬式の名人ということもあったが、なによりも項梁は亡んだ楚の名将項燕将軍の子であるということが、項梁への信頼感の基礎になっていた。項氏の旗があがれば楚の旧臣もせ参じて人数の吸収力が桓楚より大きいはずだし、第一、項梁なら項燕将軍の兵法の秘術のひとつぐらいはけ継いでいるはずだという期待も小さくなかった。
2019/11/20
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