~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (十)
秦の国家運営の基本思想は、いうまでもなく刑名けいめい主義であり、倫理をいわば否定し、法を万能とする。
法と言い、刑名と言う。すべての国家の力をとりどころとするもので、国家の力が衰えれば法はその実を失い、さらに法にしたがう側も遵うべき必要を認めなくなる。秦における法家ほうか思想の弱点が殷通においてまずあらわれてしまった。
(官とは、そのようにはかないものか)
と、項梁は、目の前の殷通のまないた・・・・のように大きな顔を見つめているうちに、秦帝国が煙のように消えてゆくのを感じた。
(しかし殷通にには殷通の理屈はある)
つまり法家の徒の殷通にすれば、法の源泉である国家が衰えた以上、あらたな源泉・・を自分が造るべく起ち上がるというのが、彼の思想上の正義というものであるのかも知れなかった。
しかし反乱の実務家である項梁が実務上大変だと思ったのは、事態が流民の騒ぎだけでなく、地方長官がこほさかしまにして起ち上がるというところまで深刻になっているということであった。市井しせいにいながら項梁も、時世をみつめ、分析し、常に判断している。が、勢いにはずみがついてしまった時世というのは、、項梁の観察をさえ乗り越えていた。。始皇帝の死から一年余、あるいは陳勝・呉広の反乱から数えてわずか二ヶ月しかっていない。
(事を急がねばならぬ)
と項梁はあせりがこみあげてきた。
それ以上に、目の前の殷通も、あせっていた。
「項梁どの」
態度が、慇懃になった。
「事は急を要する。とくに募兵を早くせねば、どういう悪人が立ち上がってこの江南で兵をつのりはじめるか、予断をゆるさぬ」
(その悪人がつまり、おれだ)
項梁は焦りがこうじ、顔に血がさしのぼった。目の前の殷通こそ競争者ではないか。
こうよ」
殷通は、威厳を持って言った。
「公と桓楚をもって、両翼の将としたい。桓楚とともに急ぎ募兵をしてくれぬか」
と、殷通は言う。
(なんだ、桓楚のようなこそどろ・・・・とおれを一緒にしているのか)
項梁は不快に思った。
「桓楚さんは、このところ行方をくらましております」
とっさに、項梁は次の行動を決意した。
「その行方を知っている者はわがおい・・の項羽めのほかはありませぬ。ただいまその項羽めをここへ連れて参りますので、ただいまの御命令、おん直々じきじきに項羽におくだ しくださいますように」
「おお」
殷通は、大きくうなずいた。
2019/11/21
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