~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (一)
その地は、はいという。
沛という字義は、水の流れや草木がさかんなさま、ということである。沛の地はその言葉通り、一望はるかな大地に沼沢しょうたくが点在し、雨量も多く、自然、水辺の草木がさかんに繁茂している。
沛は今の行政区分では、江蘇省の北部に属する。江蘇省はその南部に揚子江ようすこうを持ち、北部に多くの河川を持ち、それらが運んできた砂泥によって一望千里の野をなしている。
江蘇省を南北に分かつと、南部は水田稲作が多く、「沛」のあり北部は、麦作が主になっている。
南部の稲作地帯は人が多く住み、米を食い、楚の衣服である短衣たんいを着、楚語を話している。省の北辺あたりになると、黄河流域人である漢民族が多くなり、麥をもとにした粉食を主食とし、長衣をまとっている。
沛は新帝国になって、県令の駐在地となり、沛県と呼ばれ、そのあたりの行政府になっていた。
その男──劉邦りゅうほう──の生まれは、この沛県の治下ちかほうというむらである。邑としての豊は、その下にいくつかのを持っている。劉邦の生家は、そのうちの中陽里ちゅうようりという集落であった。
劉家は、ごくありきたりな農家と言っていい。
「劉」
という姓を持つだけで、その家族たちは名前らしいものを持っていない。当の劉邦でさえ、邦というのは名であるのかどうか。
「パン(邦)
は、にいちゃんという方言で、ときにねえちゃんというときも、パンという。劉邦とは、
「劉兄哥あにい
ということであった。
劉邦のおもしろさは、いっぱしの存在になってからも名を変えず、あにい・・・のまま押し通したことである。結局、それが名前になった。それどころか、中国史上最大の名になってしまった。
名だけでなく、あざも持っていなかった。漢民族ならたれでも字を持っている。たとえば小作人の境涯から反乱軍の組織者になった楚人の陳勝さえ、字はしょうであった。劉邦の生家のたれもが、字どころか名さえ持たなかったというのは、家が貧窮していたということではなく、中陽里のあたりが、むろん漢民族地帯とはいえ、中原ちゅうげんの文化の薄くしか及んでいない草深い田舎いなかであったことをあらわす。
この男が、無数の条件が集積してついには漢帝国の始祖になってしまったために、漢の盛時の史家である司馬遷も、その著『史記』の高祖本紀の冒頭でこの王朝の神聖なるべき始祖の出目を書くときに、当惑したに違いない。もっとも司馬遷は、容赦もないほどの露骨さで書いている。
高祖ハ、沛ノ豊邑ノ中陽里ノ人ナリ。姓ハ劉氏。字ハ。父ハ大公トヒ、母ハ劉媼りゅうおうト曰フ。
は李、などとわざわざ書いてあるのは、なにやら滑稽感をともなう。李とは、単に末っ子という意である。父の名の大公も、じいさまという普通名詞であり、母の劉媼も、劉ばあさまというにすぎない。「字は末っ子、父の名はじじさまと言い、母の名は劉ばあさまという」と、大真面目に述べ立てた司馬遷の本意はどうだったのであろう。司馬遷は父の代から漢朝の吏官であったが、『史記』は官修のものではない。彼が父の遺志を継いで一個人として編んだものであり、彼の孫の代まで家に蔵され、世上に流布することがなかった。要するに司馬遷は、彼一個の責任において『史記』を書いた。漢帝国から「高祖」とあがめられている劉邦について彼の観察態度は、酷なほどに冷厳であると言っていい。
2019/11/23
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