~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (二)
劉邦の兄たちも、その一族が後に王侯になっているのに、名が伝わっていない。ふつうその家の長男のことを、はくという。劉邦の長兄の名は、単に劉伯である。次の子のことを、ちゅうという。劉邦の次兄は、劉仲である。要するに名が伝わらなかったのではなく、もともと名がなかった。狭い村落社会では個々に名などるはずがなく、劉と言う姓さえあればよく、個々については、劉の上のせがれ、とか、劉の中のやつ、あるいは末息子おとんぼと呼びあっているだけで事が足りた。名などつけると、
── なんだ、あいつは。
よ、かえって村落の共通の感情をそこねるかも知れない。このことは中陽里という土くさい村の雰囲気をよくあらわしている。
劉邦は、紀元前二四七年に生れた。
彼の村の中陽里に、という姓の家があった。盧家の当主と劉邦の父はいたって仲良しで、珍しいことに劉邦が生まれた日に、盧家でも男児が生まれた。
「仲良し同士が、同じ日に男の子を生んだ」
ということだけでも、のどかな中陽里では大きな話題であった。村の連中は喜び、祭りのように寄り集まり、祝いとして羊の肉と酒を両家に持ち込んで大いに飲み食いした。なにかといえば集まって飲み食いしたがるのが、中陽里の雰囲気といっていい。
わんよ」
綰よ、といって、劉邦が子供の時から弟分のようにして連れて歩いたのは、この盧家の子である。
盧綰ろわんは、おとなしい子で、劉邦の言いなりになっていあた。。幼い頃は悪戯いたずらの手伝いをさせられ、長じては悪事の加担かたんをさせられ、そのおかげで劉邦が帝国を起こしたときに、長安侯にしてもらい、さらにはえん王にほうじられた。
まことに中陽里はのんびりした村で、
「どうも、劉家の末っ子は、おやじのたね・・ではないらしいな」
などという途方もないことが、たれを傷つけるわけでもなく野良のらでの大声の話題になるようなところがあった。漢民族の社会は、のちに儒教が支配思想になってから男女の姓の倫理がやかましくなったが、この時代、中陽里あたりではなお古代以来の大らかな自然さがつづいていて、そういう事故・・がままあったとしても、当の亭主さえ笑っていれば、けわしい論理的教条によって裁かれるなどのことは、まず無かった。もっとも、相手は人間ではなかった。
中陽里も、沼沢が多い、ある日、劉媼が近所の大きな沢の堤まで行って休息しているうちに、居眠りしてしまった。夢の中で、神にった。この時代、神は、森といわず、沢といわず、いたるところにいた。このとき天が晦冥かいめいし、大いに雷電がはためいた。劉媼を探していた亭主の大公が沢の堤まで行ってみると、「すなわ蛟竜こうりょうヲ其ノ上ニ見」た。其ノ上とは、劉媼の体の上である。蛟竜とは、あるいはよそから流れて来たやくざ者かも知れず、おそらくそうであろう、ほどなく劉媼は身ごもり、劉邦を生んだ。
「うちのすえつこは、竜の子だよ」
と言って、いかにも嬉し気に言いふらしたのは、唯一の目撃者である太公自身であった。しかし太公も、手放しには嬉しくなかったかも知れず、劉邦に対する態度は、他の子供に対するそれとちがって、どこかかげがあった。この父の態度は、劉邦の方にも翳をひいた。彼は世間から立てられるようになっても、父に対してどこか微妙に冷たさを持ち、露骨にその態度を示したことがある。
もっとも、この出生についての古怪なはなしは劉邦自身、気に入っているふしがあった。
2019/11/23
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