~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (四)
劉邦は、賭博とばくだけでなく、遠くへけて盗賊も働いたが、しかし沛の町に帰って来ると、得たものはみな散じた。しかし大方は、正業を持たないために無一文でいることが多く、それでも酒を飲みたがった。
「子供は乳を飲む。おとなは酒を吞む。どちらも人間を大きくするためのものだ」
と、言った。この時代の酒は乳色を帯びていて、酒精分も少なく、馬が水を飲むほどに飲まねば酔わなかった。
沛の町の飲屋では、王媼おうばあさんの店と武媼ぶばあさんの店がひいきであった。たいていは嚢中のうちゅう 一銭もなしにぬっと入り、したたかに酔い、支払う意思もなかった。この時代、旗亭さかやはたいてい年末払いだったが、劉邦は口だけでも払うとは言わなかった。
── いやな奴が来やがった。
と、最初は王おうも武媼も思ったが、やがては妙に採算が会うことを知った。劉邦が店に来ると、町中の劉邦好きの男や与太者たちに伝わり、彼らが互いに仲間を誘いながらやって来るため、たちまち店は客で満ちた。劉邦が呼ぶわけではなく、彼らが劉邦を慕い、劉邦の下座しもざにいて飲むことを喜ぶためであった。
劉邦は、文盲もんもうではなかったが、それに近い。
無学なために、何か教えをれるなどということはしない。とくに諸方の地理人情に明るいわけでなく、またとくに商売のたねになるような商品市況の情報を教えるわけでなく、さらには、座談がうまいわけではない。
ただ劉邦はむしろの上に座っているだけである。大きなわんに米のじるのような色をした醸造酒を満たし、ときどきそれを両手でかかえては飲む。
人々はそういう劉邦のしばに居るだけでいいらしい。みな一杯ずつ酒をっては座に戻り、互に好きなことを話し、酒が尽きると、また酤う。劉邦はただそれらを眺めている。彼らにすれば、劉邦に見られているというだけで楽しく、酒の座が充実し、くだらない話しにも熱中でき、なにかの用があって劉邦がどこかへ行ってしまったりすると急に座が冷え、人々も面白くなくなり、散ってしまう。
劉邦が戻ってくると、人々は、
「よう」
と、歓声を上げながら彼を擁してもとの上座につかせ、一同は退さがってまた飲んだ。劉邦は行儀が悪く、少し酔えば横に長くなって肘枕ひじまくらをし、ときどき癇癪かんしゃくをおこすと、その男を口汚くののしった。類がないほどに、言葉遣いが汚かったが、そのくせ一種愛嬌のある物言いで、ののしられた者も多くの場合傷つかず、一座もげらげら笑い崩れてしまうというぐあいで、劉邦の芸といえばあるいはこれが唯一の芸であったかも知れない。

劉邦ゆうほうが沛の街路を歩いている時も、独り歩きするということはめったになかった。まず、盧綰ろわんが犬ころのようにつき従っている。
それに、大男の樊噲はんかいが従っていることが多い。樊噲は、劉邦が数奇な経緯のはてに漢王になり、さらには皇帝になってしまうために、彼も当初小部隊の長になり、やがては漢軍の将領になり、最後には舞陽候にほうぜられ、死んで武候というおくりなをうけるまでになったが、この時期は沛の町の犬の屠殺とさつ人であった。この当時、犬は羊やぶたと同様、食用であった。劉邦の仲間はたいていえたいの知れない暮らしの中に居たが、正業についていたのは樊噲ぐらいのものであったかも知れない。樊噲はつねに明快な倫理感をもち、小細工こざいくを好まず、いつも黙りこくっていた。その大力と勇敢さと、剣をよくすることでは天成の武人と言ってよく、とくに劉邦のためなら死もいとわなかった。
「劉あにィに手出しをするような奴は、九族まで探して八つ裂きにするぞ」
と、樊噲は言ったことがある。
劉邦が沛の町で、彼を好まない勢力から害されることがなかったのは、ひとつには樊噲がついていたためだったといえる。
この連中が歩いていると、家々から、
「どこへ行くんだえ」
と声をかけて人がついて来たし、辻で見かければ追ってきて群れに入る者もいたし、ともかくも劉邦という存在は、無一文ながら沛における重要な勢力であるにはちがいなかった。
2019/11/24
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