~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (五)
この、後世江蘇省と呼ばれるようになったその北端の沛地方というのは、北方的漢民族の居住地としては、その最南の僻陬へきすうといっていい。
戦国時代にはしばしば南方のが沛まで北進してここを版図はんとに入れた。南方の呉が亡び、えつが衰え、呉越同様に南方種族だった楚が大いに北へ伸びた時、ついに沛を含めた泗水しすいの流域まで楚の領土になったことがある。が、沛地方の人々にとっては、税を取られてゆくだけで、楚の風俗にさられるほどの濃厚な支配を受けたわけではない。
「沛は中原ちゅうげん の南のはずれ、楚の北はずれ。こんな気分のよい町はない」
と、人々は言った。
戦国の諸勢力というのは、それぞれ政治・軍事上の勢力圏であった半面、それぞれが互いに文化的特徴や、他と異なる気風を持っていたが、それらの勢力圏の影響を比較的薄くしか受けなかった沛地方という沼沢の多い土地は、太古以来ののびやかな気風ものこっていた。
国家というものが沛に重くのしかかってきたのは、秦帝国の成立からである。この大陸には、当初住民が居て野をひらき、穀物こくもつを植え、家畜を飼い、村々が自衛して盗賊の害を防いだ。そのあとで国家がにしかかってきたのだが、春秋戦国の頃の王国群は秦から見ればはるかに物柔ものやわらかな支配にすぎなかった。それらが亡んで秦帝国になると、中央・地方の官制が網の目の細かさで整然とととのい、地方のすみずみまで人々は法のきずなにつながれ、自分の身が自分のものではなくなり、すべてが帝国の奴隷どれいのようになって労役に駆り出された。わずかの非違ひいでも、こまごまとした法に照らされて処罰を受けた。
この沼沢と草木の豊かな土地も「沛県」として行政九画され、沛に県庁が置かれたことは、すでに触れた。人々にとってそれだけでも物憂いことであったが、しかし劉邦のような男にとっては、
(なるほど、政治とはそういうものか)
という、身のふるえるような好奇心を掻き立てる契機あるいは対象になった。彼が沛の町に入り浸っていることが好きなのは、そこに商人、博徒、酒造り、酒売り、陰陽家、盗賊、職人といった非農民がにぎやかに都市生活をいとなんでいることだけではなく、そこに政治が存在したからであろう。具体的には県庁という権力の執行機関が所在しているということだった。
「ふん、これが県庁かい」
と、当初、柱の赤い建物が出来た時、劉邦はまず大声で悪口を言い、次いで、そこへ入り込んだ。
県吏たちの多くは地元から採用されている。自然、その親もとや親戚が地元に多く、それらのうちで劉邦の子分になっている者もある。劉邦が、前後左右に彼らを従えて庁内に入って来ると、いかに法において秦帝国の世とはいえ、県吏たちも多少は親しみを見せざるを得ない。
役所の出入りにれてくると、劉邦はあごを突き出して吏員たちをからかったり、大声で冗談を言ったり、庁内で昼寝をしたりした。
「あいつには、相手になるな」
と、吏員たちは、互いに言いあうようになった。
劉邦は、一面で人をれることが野放図なほどに寛闊であったが、一面では病的な──やくざの親玉になるような男の通有のものかも知れないが──執念深さを、とりかぶと・・・・・塊根かいこんの中の毒のように秘めていた。自分にあがをなす者については、表面は笑顔でつきあっているが、相手のすきを見てひそかに復讐ふくしゅうしたりした。むろん、復讐は劉邦がじかにやるわけではなく、子分がそれやった。県庁は小なりと言えども秦帝国の官衙かんがである。帝国の法を保持し、帝国の威権を持っている。しかし地元出身の吏員のひとりひとりは生身なまみの人間で、役所からの帰路、人知れずに死骸にされるかも知れないという恐怖心を、劉邦に対しては持つようになっていた。
「あいつは、盗賊を働いているらしい」
ということを庁の吏員たちはみな知っていたが、口には出さなかった。もっとも、劉邦はそういう荒仕事を沛地方でやがず、他県でやっていた。このため沛県の役人としては事を荒立てわざわざ劉邦の憎しみを買うこともなかった。吏員たちはそれをあばきたてるよりも劉邦に近づき、劉邦と親しくなることによって、管内の悪党どもの動静を知っておくほうが、仕事の上では有益であった。
2019/11/25
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