~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (六)
肅何しょうか曹参そうしんもそういうぐあいの県の役人である。どちらも沛地方の出身で、県庁ではどちらも司法関係の仕事をしていた。肅何が上役で、司法・警察課長というべき職であり、曹参はその下の獄吏であった。巨大な秦帝国の官僚機構から見れば、粟粒あわつぶともいえぬほどの現地採用の小役人である。
どちらも、劉邦を保護したために、後年、漢帝国の宰相になるという数奇な運命をたどってしまった。肅何は高祖(劉邦)の宰相になり、在世中も後世においてももっとも評判のいい政治家の一人になった。また曹参は劉邦や肅何の死後、第二世皇帝の宰相になる。名声はかならずしも肅何に及ばなかったものの、しかしそれに次いだ。
両人とも、法家ほうか主義の秦帝国の小役人でありながら、その思想は必ずしも型どおりではない。かといって流行の兆しを見せつつある儒家でもなかった。どちらかといえば、物事の善悪を峻別しゅんべつすることを嫌うという点で、老荘の思想に近かった。
かといって、両人の若い頃──沛の役人時代──どんな思想を持っていたかなどということは、当人自身もよくわからない。
余談だが、漢帝国の成立後、曹参は一時、地方にいた。劉邦の子の悼恵とうけい王がせい(七十あまりの城邑を持っている)の王に封ぜられたとき、曹参はその丞相じょうしょうになった。それまで野戦攻城の将軍だった彼にとって、政治は最初の経験だった。彼はもともとから斉にいた儒者を百人余り招き、「どうすれば人民の暮らしを安んじ得るか」と質問した。儒者の言う事は百人百説で、元来、政治論には白紙の曹参にとって、何が何だか、よくわからなかった。
人がいて、膠西こうせい葢公こうこうという人物がいる、と曹参に告げた。老子の徒で、諸事、自然がいい、と言っている、という。曹参はそれを手厚く招き、教えを乞うと、政治の要諦ようたは積極的なものではない、ひたすらに清静を尊ぶだけでよい、清静さえ主眼にしていれば民の心も暮しもおのずから安定する、と葢公は言った。曹参は大いに感心し、自分の丞相としての政堂をからにして葢公に明け渡し、自由に政務をとらせた。在任九年、斉は大いにおさまり、曹参は労せずして賢相という評判をとった。
やがて肅何は死に、曹参は後任を命ぜられた。彼は斉の丞相の職を後任者に譲る時、
「それでは、斉の獄市ごくしを貴官にお渡しします」
と、言った。獄市とは、牢獄ろうごくと商品の市場のことである。むろんこの時代といえども政治は多岐にわたっており、獄市にみではない。後任者は不審に思い、政治にはほかにもっと大事なことがあるのではないでしょうか、と反問すると、
「獄といちだけが、政治のかなめです」
と、曹参は言った。曹参の考えは、牢獄も商業の場も、善悪ともに受け容れるところです、これに対して為政いせい者が善悪に厳格でありすぎると、かえって具合が悪くなります、ということであった。
このことはどうやら老荘的な政治学の基本のようであったが、後任者はまだよくわからず、なぜ獄市を厳正にしすぎるとよくないのでしょう、と問うた。
曹参は、世の中には必ず姦人という者がいる、という。これをやわらかく包むのが曹参の社会に対する生理学的な認識のようであった。そういう姦人たちは、司法の対象になるか、市場管理の対象になるかどちらかだが、この獄と市をあまりやかましく正しすぎると姦人は世に容れられなくなり、かならず乱をおこし、国家そのものを毀損きそんするもとになる、だから獄市は大切だと言ったのです、と曹参は答えたという。
2019/11/25
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