~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (九)
信陵君、名は無忌むい、戦国末期のの公子であった。王を補佐し、魏の勢いをさかんにし、当時、虎狼ころうの国といわれた秦の圧迫に抗した。もっとも有能な補佐者はしばしば王にそねまれたり、敵国からの反間苦肉を受けたりしたが、信陵君もその例外でなく、その境涯に波瀾はらんが多かった。そのことはしばらく。
「食客三千人」
といわれた。
戦国末期、諸国に貴族出身の名補佐者が出、斉の孟嘗君もうしょうくん、楚の春伸君しゅんしんくん、趙の平原君へいげんくんとならんで信陵君は戦国末の四君などと呼ばれていたが、信陵君の評判はあるいはもっとよかったかも知れない。
戦国末には、諸国に知恵者がむらがって出た。智恵、情報、能力、特技が、渡世のたね・・になる時代が来たと言っていい。彼らは諸国を漂泊し、自分の持ちだね・・の知恵や能力あるいは情報を国々の実力者に売りつけ、その門にわらじをぬぎ、食客になった。多くは寄宿舎ふうの建物に住んだが、能力の高い者には独立の邸宅が与えられる場合さえあった。いかに素性が卑しくとも、けんであればよかった。
賢が価値をよび、賢がより高価にそれを買う買い手を求めて天下を流浪し、人材がいわば商品化するまでになったというのが、戦国末の特徴である。劉邦らのこの時代よりも、ほんの半世紀足らずの昔であるのすぎない。
賢には、様々あった。たとえば斉の孟嘗君が、鶏の鳴き声の上手い者といぬえ声の上手いというだけのけちな盗賊をも賓客ひんきゃくの列に加え、「先生」と呼び、やがてそれが孟嘗君の急場を救う。そういう奇譚は、劉邦のこの時代になると、一個の浪漫的情景の中で語り伝えられるようになっている。
「孟嘗君はたかが知れている。四君の中で、信陵君の俠がもっとも大きい」
と劉邦は常に言っていた。
信陵君が、貴族の身でありながら、いかに食客を優遇し、つねに賢を求めていたかとい話は、魏が亡んで魏人の多くが四方に散ったために、その伝聞を聴くことは、容易であった。なにしろ信陵君の時代は、劉邦のこの若い頃における六十代以上の年齢の者なら、同時代の感覚ではなしを語ることが出来た。
とりわけ信陵君と侯生こうせいという老人の話は、ひろく伝えられていた。
当時、魏の国の首都は、大梁たいりょう(のちの開封)の町である。侯生は魏の最下級の役人で、首都の夷門いもん(東の門)の番人をしていた。とし七十というこの老門番の存在など、首都の人々の間であらわれるということはないが、信陵君の食客のたれかが、あの侯生というのはただの門番ではありません、くらまして市塵しじんにまみれて生きている隠者です、と耳打ちしたことで、知られた。
信陵君は驚き、みずから門番小屋まで出かけて行って交際を求め、同時に厚く贈物をした。
侯生が他地方の人ならともかく、魏の人であり、それも官僚制度の中の末端にいるのに、筆頭貴族の信陵君がわざわざげて夷門へ行き、礼を厚くして賓客に招こうとしたのは、尋常な出来事ではない。信陵君の本質が、官僚的政治家でなく、大俠であるというゆえんであろう。
「信陵君とはそういう人だ」
と、劉邦はこのあたりの信陵君の風姿に惚れぬいていた。
2019/11/27
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