~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (十)
侯生もしたたかであった。これに応じず、贈物も受け取らなかった。
「私は、貧しくはあっても身を清らかにして暮らしている。邪魔をしないでもらいたい」
が、信陵君はあきらめず、後日、ふたたび侯生に接触しようとした。その日、信陵君はその邸館に魏の貴族や大官、あるいは食客をまねき、宴会を準備していた。彼は侯生を上客として招こうとし、わざわざ車騎を従えて夷門へ行き、うやうやしく侯生の手をとった。侯生はぼろぼろの衣冠をつけ、信陵君の車に乗った。乗ってから自分の車のように、
── 友人に用があります。市場へまわってくださらんか。
と、侯生は信陵君に言った。市場に友人がいるという。屠殺夫の 朱亥 しゅがい という者であった。侯生のいうところでは朱亥もまたその尋常ならざる勇と賢を晦まして 市井 しせい に隠れているのだ、ということだった。車が市井の雑踏の中に割り込んで行くと、やはて朱亥の姿があった。侯生は車を降り、朱亥と立ち話した。
信陵君を、車に待たせたままであった。
侯生は朱亥と談笑し、この任俠の貴族を待たしつづけた。一方、宴会場では、信陵君の帰りを魏の公子たちや大官、将軍、あるいは有力な食客が待ちに待っていた。信陵君が帰館しないと宴会が始まらないのである。
(ふっつの人間なら、いらだって不快の表情を浮かべるはずだ)
と、侯生は思い、ときどき車上の信陵君を見た。侯生の方がその つか えるべき相手をためしているのである。
信陵君もそう察したいたから、たえず温厚な表情をたもち、車上で待った。これを見た従者たちや市場に集まっている人たちは、侯生をひそかにののしりはじめた。やがて侯生は、「この人物が、先刻お耳に入れておいた朱亥です」と、路上から言った。路上に突っ立って貴人に物を言うなど、礼にかなわないのも はなは だしい。が、信陵君の恭倹さに変化がなく、車を降り、朱亥の前に進み、うやうやしく敬礼し、どうか朱先生も私の賓客になっていただきた、と乞うた。ところが朱亥は横を向き、返事もしなかったばかりか、信陵君の礼に対して答礼もかえさなかった。
この朱亥の態度は、ごく一般的に考えて、理由のないことでもなかった。貴人が礼を厚くして賓師になってくれという場合、つまりは「 知己 ちき の恩」を売ってくると考えてよく、この知己の恩を受けたが最後、たとえば、死んでくれと頼まれれば死なざるを得ず、それがこの時代の俠の道といってよかった。侯生も朱亥も、 おの れを知ってもらえることの あと にやって来る災禍から身を護ろうとしたに相違なく、しかしながら朱亥はのがれ、侯生ひとりが信陵君の手厚さに屈してしまい、賓客になることを承知したのである。俠死を予約したと言っていい。
このあと、侯生は信陵君にともなわれてその宴会場へ行った。信陵君はこの老門番の手をひいて上座にすえ、やがて堂に酒気が満ち、宴が半ばまで進むと、彼は来会者を指揮してこの門番の長寿を祝った。
宴が終わる頃、侯生が、「公よ」と信陵君に言った。あなたに私はずいぶん厚くしていただいたが、それ以前に私の方があなたの為に尽くしている。あの市場の雑踏の中で、私はあなたを車上に待たせ、朱亥と立ち話にふけったが、そのとき いち の人々は、待たされれば待たされるほどうやうやしい態度をとりつづけたなたを尊敬し、賢者に対して心からへりくだる 有徳 うとく の人であると見、 めぬ者はなかった。それにひきかえ、この侯生は、 所詮 しょせん は門番ふぜいの小人にすぎない、と衆人がみな非難した。このことは、あのあと、私は人を って調べさせたから間違いはない ── と言った。
この侯生の態度は、戦国末期の世間の一端を知る上で、重要と言わねばならない。戦国期に商品経済が発達したが、それによって人々の意識が変化し、賢者の賢才も商品として数量化して見られるようになった。同時に封建貴族がほどこす「恩」も商品的な価値としてとらえられている。さらにはその「恩」に対して賢者側は「むくい」を見せねばならないのだが、その「酬い」もまた「恩」に見合うだけの数量的な価値を持っている。この場合、侯生は私とあなたとの貸借関係は右の数式で一応済んだのだ、というのである。信陵君も、
「先生のおっしゃるとおりです」
と、よく理解した。
この時期、 ちょう は秦に攻められていた。趙は勝たず、ついに首都 邯鄲 かんたん を秦軍によって包囲された。趙王および補佐者の平原君は、魏に救援を求めた。魏王はいったんは十万の兵を出したが、途中で秦と戦うことが怖くなり、行軍を停止させた。趙の平原君は、魏の信陵君を責めてきた。「あなたは、世上、高義の人といわれている。どうやら噂とは違うらしい。それに、姉(平原君の夫人は信陵君の姉)の悲運を憐れまぬというのはどういうことであろう」という文面であった。が、魏王はなおも出兵を許さない。ついに信陵君はわずかな食客を率いて、いわば単独で趙へ赴援することを決意した。強大な秦軍に 小勢 こぜい で当たる事は卵を石壁に投げつけるようなもので死を意味するが、信陵君は首都の 大梁 たいりょう 城を出た。夷門から出た。出るにあたって、門番の侯生にあいさつした。侯生は「どうぞお行き下さい。私は老齢のためにお供は出来ません」と言った。助言もしなかった。恩を受けた賢者はこういう場合には助言をするものであり、恩を施す側から言えば、こういう場合の助言を期待してのことなのである。
(ふしぎなことだ)
信陵君は城外へ去りつつ思った。自分は侯生先生を士として厚く遇してきて、手落ちはなかったつもりだが、しかし侯先生のあの態度を見ると、あるいは手落ちがあったのかも知れない、と思い、車を夷門までひきかえさせた。侯生は笑って、引き返して来られると思っていました、と言い、必勝の策を耳打ちした。結果としては信陵君はその策を用い、奇捷を博するが、その時には侯生もすでに生きてはいない。信陵君と別れる時、私は老齢で軍には従えない、であるから公子が戦場に到着される頃、その日数を数えておいてその日にみずから首を ね、公子の門出を送ることにしましょう、ついては朱亥をお連れ下さい、かならずお役に立ちます、と言い、やがてその約束した日に頸動脈に やいば をあて、一気にひいて死んだ。恩に対しては賢という商品で返し得るが、しかしそれ以上に知己という全人格を尊敬されてしまった場合は返しようもなく、結局は死をもって酬いるしかない。それを侯生は実行した。そういう士としての気風、倫理あるいは進退の法則のようなものが戦国末期すでに出来ていたことを、この挿話はよくあらわしている。
2019/11/27
Next