~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (十一)
── おれは信陵君だ。
と、劉邦りゅうほうひそかにこの大俠を気取っていた。彼がいかにこの大俠がすきだったかについては、後年、大軍を馳駆ちくさせる身分になった時、大梁の町をしばしば過ぎ、過ぎるごとに土地の者に金を与えて信陵君を祭らせ、その祭祀さいしを絶やさぬようにさせたということを見てもわかる。
劉邦は、七面倒なことが嫌いであった。理屈の多い儒家を好まず、かといって人民を虎狼のように法の爪にかける法家は彼自身、秦の世を体験してへとへとになっていたし、あるいは道家とまでになると、その思惟しいが高雅すぎてよくわからない。劉邦には、俠の一字があるのみであった。つまりは信陵君のみが、彼の書物であり、手本であった。たとえば当初、はいの市中で樊噲はんかいにはじめて出会った時も、
(これはわしの朱亥だ)
と思った。
ほかに侯生にあたる人物も多く持っており、肅何しょうか曹参そうしんなどについても、劉邦から見れば、彼らはおれにとっての侯生だ、と思い込んでいた。もっともこの場合、肅何の方が劉邦より身分がはるかに上である。さらに肅何自身は劉邦をそれほど高く買っていたわけではなく、
── 劉邦ハもとヨリ大言多ク、事ヲ成スコトスクナシ。
と、評したことがある。
劉邦は元来が大法螺おおぼら吹きで、法螺を裏打ちするようなのあることをやり遂げたことがない、というのである。肅何によれば事をなすには、権力か富かを必要とする。劉邦にはその二つながら無く、事を成そうと思っても成せるはずもなかった。肅何にとっては、要するに劉邦はお目こぼしにしてやっている自称俠客にすぎない。であるのに劉邦のつもりでは肅何を子分扱いし、信陵君のように恩を売ってやっているつもりでいる。
「肅何はわしの子分だ」
と、町で言ったりした。
肅何もときどきやりきれなくなったであろう。
信陵君の徳のきわだった特徴は謙虚であることだった。いかなる身分の者でも賢才と見れば師表と仰いでへりくだったが、劉邦はそうはせず、肅何をばかにし、ときにひどく乱暴で無作法であった。もっとも信陵君は貴族だったからへりくだりも徳である得るが、劉邦のような素寒貧すかんぴんの無頼漢は、うかつに肅何などにへりくだれば哀れみを乞うているようで、謙虚とは人は見てくれない。
劉邦の持つところといえば、竜に似ているといわれるその顔しかなかった。二十代の半ばを過ぎてからはほおひげあごひげをたくわえ、長身の体と相まってまことに堂々としている。ただし、口を開けば、無知と品の悪さというお里が出て、とても信陵君どころではなかった。
(あの下品さが、たまらなくいやだ)
と、肅何は思っている。大俠というのは本来謙虚で、気品のあるものでなければばらないのではないか。
もっとも、
(あるいは、劉邦には意外な面があるかも知れない)
とも肅何は思うことがある。
劉邦が武媼ぶばあさんの店などで酔いくらって寝てしまっているときに、竜が寝姿の上にあらわれているというのである。肅何はそういう類の話は信じないほうであったが、たとえ作り話であっても劉邦自身が作って広めているのではなく、武おうやその他の劉邦好きの連中が本気にして、いわば顔色を変えてその不思議を語り、自然に広まった話であった。このことは、劉邦という男に神秘性を見出したいという欲求が彼のまわりにあるとおうことであり、裏返して言えば、肅何のような理詰めの男には見えにくい劉邦の徳のようなものかとこの聡明な役人は時に首をかしげてみたりした。
2019/11/28
Next