~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (一)
「人間のかがみとは、ひょっとすると肅何しょうかのような男のことを言うのかも知れない」
沛県のなかのほうの農民の子として生れたこの小柄な男は、文字や算用に明るかったために、県の現地採用の小役人になった。たちまち吏務に練達し、沛県ではなくてはならぬ役人になった。
沛の人々が、県の役人時代の肅何については二通りの印象しかない。
は、あご・・の下にかびかび でも生えているのではないか」
と、人々が言うほどに、毎日、薄暗い役所の片隅で背を丸めながら、小刀で木や竹のふだを削っては文字を書き込んでいる。
いまひとつの印象は、住民が何かを訴えに来た時、小さな目をいっぱいに見ひらいて訴えに聴き入っている姿だった。
「そういう時の何の目は、子供のようにきれいだ」
と、人々が言った。無口だが、人の話はよく聴いた。
肅何は、天性、人々の世話をし、彼らを保護することが好きなたちであったのかも知れない。
べつに栄達欲もなさそうで、自分の生まれ故郷の小さな地域に住む同郷人たちの利益を守るために生まれてきたと思い込んでいるようなふしがあった。沛の人々は肅何を敬愛し、ごく自然な人望があったち言っていい。
ただ肅何は人望を売り込むようなところが全くなく、その上、性格が誠実すぎた。あまりに誠実すぎるために、かえって彼の印象を小さくし、影響を薄くしているようなところもないではなかった。とはいえ、
「沛の役所に何が居る限り、わしらは安心だ」
とたれもが思い、そういう意味では肅何ほど沛県の上下から信頼される男は居ない。
それほどの肅何が、ろくでなしといわれた劉邦/rb>りゅうほうをかばい、かばいすぎてときに劉邦に兄事しているいかのようにも見える。あるいはとしの変わらぬ劉邦に対して本家の伯父を見るようにうやうやしい態度をとることもあり、このことが劉邦の価値を大いに上げていたと言ってもいい。
なぜ肅何が、そういう具合だったのか。
「劉季(劉邦)固/rb>もとヨリ大言多ク、事ヲ成スコトスクナシ」
と先に述べた肅何の劉邦評は、呂公りょこうに洩らした言葉である。肅何の正直な劉邦観だったであろう。この言葉は、肅何が漢帝国の宰相になってからも、長く沛の町で語り伝えられていた。よほど後代になってから、当時刑余者だった司馬遷しばせんが沛の町に来て俚人りじんの間を取材してまわったとき、この言葉を聞いた。司馬遷はほとんど口語のままでその言葉を文章の中に挿入した。
   大ぼらふき
   なにをやったという事もないろくでなし
と、肅何は劉邦を思ってはいるものの、ただ、
(憎めない男だ)
とも思っていた。そういうこともあって劉邦が小さな犯罪をたえず繰返してもかばってきたのだが、この肅何の劉邦に対する淡い好意が、一転して積極的なものになるのはいつごろからであろう。
(劉邦には徳というほどのものはないが、ちょっと類のない可愛気かわいげがある。このことは、稀有けうなものとして重視していいのではないか)
と、思いはじめた。可愛気が、留保の中で光っている。それが大きな光体になって劉邦の不徳も無能も、すべておおいくらますほどの力を持っている、と肅何は思いはじめた。この大陸の社会では、德が重視される。徳ある者が人をきつけ、人々に推しあげられ、ときに神の代用物のように信仰され、結局は勢力をなす。この時期の劉邦は徳者とも言いにくいのではないか。徳者といえば肅何自身の方がそうであろう。が、劉邦にあって肅何にないものは可愛気だった。
2019/12/01
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