~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (二)
夏侯嬰かこうえいという者がいる。夏侯が姓で、嬰が名である。やはり沛の生まれで、はじめ県のうまやの雑役婦だったが、簫何が目にかけてやって、下級の県吏にひきあげてやった。のちに漢の汝陰侯じょいんこうになる男である。
この男などは、早くから劉邦の可愛気のとりこになっていて、
兄哥あにい々々」
と、劉邦のあとを家鴨あひるの子のようについて歩き、葬式にのしょう吹きの周勃しゅうぼつなどと一緒にいつも群れて取り巻いていた。あるとき簫何が、なぜお前は劉邦につい・・ているのか、ときくと、嬰はしばらく考えて、
「あっしが居なければ、劉あにい・・・はただの木偶でくの坊ですよ、と言った。この時簫は劉邦の可愛気ということに気付いた。
(劉邦というのは、なるほどそのゆなところがあるのか)
簫何はその面で劉邦を見ようとした。
閑人ひまじんの劉邦は、たえず県の役所に遊びに来る。嬰などは仕事をほったらかしにして、劉邦とじゃれまわって遊んだりした。そうしう子供っぽさを見ると、双方とも、とても利口者とは思えず、
(嬰が言う劉邦の可愛気とはこういうことなのか)
と、なかばそう思い、うんざりした。
あるとき、劉邦は、県庁で剣を抜いた。むろん冗談じょうだんである。夏侯嬰を追っかけてみせた。嬰はたわむれに逃げ、さらには戯れに剣を奪おうとし、奪われまいとした劉邦が、不器用にも子分の嬰を斬ってしまった。
── 役人を斬った。
劉邦は不徳にも飛んで逃げ、あとの血だらけの嬰が残った。それを、県令がみつけ、このため騒ぎがおおやけのものになった。
「たれが、県吏たるお前の体をそこなったのか」
と、県令がじきじき咎めた。県令は他の者から事情を聞いて、この傷が劉邦のしわざらしいということを知っていた。県吏が傷害にうなどは、いかに下っ端役人といえどもしん帝国の威信にかかわることであり、かつ劉邦の日頃の行状についても、県令はうすうす気づいている。町のごろつきの身で県庁に出入りし、県吏をおのれの手下同然にあつかっているらしいことをにがにがしく思っていたために、県令は嬰の口から証言させ、それをたね・・に劉邦を逮捕し、処刑してしまおうと思った。
が、夏侯嬰は「犯人」の名を吐かなかった。
「吐かせろ」
県令は、中国史上、最初の法家ほうか主義の帝国の地方役人だけに、容赦ようしゃはなかった。こまったのは県の司法の責任者である簫何だったが、そこは県令への操縦はれていて、うまく時間を稼いだ。さらには嬰に対してもやさしくなだめてやった。
「吐いてしまえ、劉邦のことは、わしがなんとかする」
吐かなければ、嬰が黙秘の罪に問われる。この罪は重く、
むちを加え、牢に入れられる。とても体が保つまい。嬰、死ぬぞ」
と簫何は言ったが、嬰はかぶりをふって、劉邦をかばえるなら、自分などの一命はどうなってもいい、と言い切った。
嬰は、黙秘の罪でもって市中に引き出され、衣服をがれて数回の笞をくらったが、簫何と気脈を通じている牢屋役人の曹参そうしんが、執行役人に手心を加えさせたために痛みは少なかった。しかし牢にはたっぷり入れられた。一年も入っていたが、ついに嬰は劉邦の名を口にしなかった。
(なるほど、嬰の態度でわかった。劉邦とはこういう男か)
簫何は、嬰のみごとさよりも、むしろ嬰によって劉邦の真価を見たような感じがした。
劉邦の人間は、人に慕われやすいくできている。そのくせ有徳人うとくじんでもなく、またこの時期、長者の風があるわけでもない。ただ人間の風韻ふういんが大きい上に、弟分の者が劉邦を仰ぐとき、居たたまれぬほどに何かしてやりたくなる可愛気というものが劉邦に備わっているのであろう。
(ああ、劉邦と言う人間を、おれは知ったな。以後、珍重すべきだ)
と思った。簫何のような男が、自分の保身のためにそう思ったはずがない。沛地方の住民に対する彼独特の愛情がこういう知恵と詠歎を生み出したと言うべきであった。簫何の見るところ、秦はやがて崩れる。その制度は卓抜したものが多かったが、あまりに新奇なために人々はなじまず、さらには労役が過重すぎて怨嗟えんさの声が地に満ちている。秦という大鍋おおなべの底が破裂すれば天下は収拾しゅうしゅうのつかない大混乱となるに相違なく、その場合、沛の住民は盗匪や私軍、官軍の掠奪に苦しむに違いない。何人なんびとを立てて沛を守るかと言う場合、
(劉邦しか居ないのではないか)
と、簫何は思うようになった。
2019/12/03
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