~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (三)
思っただけでなく、簫何は、劉邦を売り出そうとした。そのためには県の役人にするのがいいのだが、劉邦はろくに文字を知らないために、その職にはつけない。簫何は考え、亭長ていちょうの職が劉邦に舞い込んで来るようにひそかに工作した。やがてそのことが実現したが、簫何は恩きせがましいことを言わなかったために劉邦自身、なぜこういう幸運がやって来たかは知らない。
ともかくも劉邦が沛県の管轄下かんかつか泗上しじょうという在所の亭長になったということは、その当座、沛の町でもちきりの話題だった。
「たいしたものだ」
といおうのは、劉邦に好意を持たない連中の皮肉まじりの感想であった。ほうむらの父や兄の田畑をたがやすべき男が、農業を嫌って町をほっつき歩いたり、けちな盗人ぬすびとになって野稼のかせぎをしていたのに、最下級とはいえ、とこかくもになったのである。一方、劉邦に好意を持つ者は、年中ふところの寒かった彼が、わずかながら収入を得る身になったのをともに喜んでやった。劉邦も大いに喜んだ。このあたり、劉邦は大言癖のわりには、望みが存外小さいと言わねばならない。

ここで、亭と亭長について、すこし触れておく。
秦以前から、この大陸の郷村の単位として、五戸をもってりんと言い、五隣をもってということがあり、秦帝国もほぼこの制度を継いでいる。この計算でいくと、社会の最小単位である里はじつに小さく、その戸数は二十五戸にすぎない。
里の風景というのは、大きなもりが中心になっている。杜のなかにしゃという地主神をまつったほこらがあり、里人にとっての祭祀さいしと団結の中心であるおと同時に、里に住む人々の名前を記載した簿がおさめられている。里ぜんたいが、土の廓で囲まれている場合が多く、その場合は門があって、日没後は閉ざされる。
亭というのは、「十里一亭」といわれ、十個の里に一つの亭がおかれている。亭が古代にもその名称はあったが、これを地方制度の一つの結び目としたのは、秦の始皇帝しこうていであった。
「亭」
というのは、宿屋でもある。
官設宿屋である。公用旅行をする官吏の宿舎として使われたが、その意味においては亭は日本の江戸期の宿場の本陣に相当するともいえるし、さらに亭長というのは江戸期日本の制度でいえば本陣の主人にして宿場役人を兼ねている者と考えればいい。
ただ秦帝国は、封建制度の江戸日本とは違い、純然たる中央集権制の官僚国家であるために、亭長は、本陣の主人のような委託されたあいまいな役職でなく、小なりと言えども純乎じゅんこたる吏員で、警察所長と理解する方が早いかも知れない。

亭の建物は、小さながらも役所風といっていい。
遠い周の時代には、一般に建物の屋根というものにはかわらがなかった。戦国になって土を焼いて瓦をつくることが普及しはじめ、秦になると、亭のような最端末の役所でも、瓦でもって屋根がかれていた。もっとも役人の家はたいていかやぶきで、茅ぶきのことをわざわざ「白屋はくおく」と呼んだから、里という集落の中にある亭の建物は、白屋の群れの中で毅然きぜんとして瓦屋根を誇っているという印象がある。
それだけでも遠目には堂々として見えたし、建物のまわりはついじがめぐらされて、威厳もある。また内部も壁には、おおはまぐりの貝殻を焼いて粉にした白い塗料が塗られ、民家よりは快適な感じがした。
建物の中には、椅子や卓子テーブルはない。この大陸の人々が、土間をつくり、そこに椅子を置いて腰をかけることをはじめたのは、一般にははるかに後代のそう初になってからで、この時代には存在せず、劉邦とその同時代人は、のちの日本建築と同様、ゆかを張ってその上にじか・・にすわるという生活様式を共有していた。
じか・・といっても、せきの上にすわるのである。席は、植物のくきなどで編まれた後代のアンペラ風のもので、亭のように大小の官吏が泊まる場所なら、席のまわりは、きれいな地文じもんを織り込んだ織物でふち取りされている。
以上が、亭の外容と内景である。
亭の仕事は、こまごまとしていそがしい。
亭に官吏がとまる場合、予告があれば亭長は建物の中を清掃しておき、付近の橋などがこわれていれば修復しておかねばならない。
旅の官吏が亭にやって来る場合、亭長は出迎えねばならない。いんぎんに亭内を案内し、席へあげ、亭長自身は席よりずっと離れて下座にさがって挨拶をする。亭長は以下の役人はいないために、たれに対しても頭をさげねばならなかった。劉邦は、粗野で知られた男だったから、こういう挨拶は苦手であったが、しかし後世の平坐ピンツオといわれる行儀の悪いあぐら・・・などいたりはしない。もっともこの劉邦の時代、そういう坐り方は存在しなかった。客人や目上の者の前ですわる格好というのは、後代の日本の正座に似て、二つのひざを折りまげ、しりを両足の上にのせるというものであった。この時代、ひとつには日常の衣服にズボンがなく、また下帯を着けなかっために、両脚を投げ出してあぐら風にすわれば陰所が露顕するおそれがあったのである。

2019/12/04

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