~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (四)
亭長 の仕事は、官設旅館の管理人というだけではなかった。
さきに述べたように十個のの警察官も兼ねていた。
このことは、劉邦りゅうほういていた。江戸期日本も、目明めあかしのたぐいはかつて犯罪を犯したことのある者を使い、その道の経験をおかみに役立たせたりしたが、劉邦の場合、かつて自分も盗賊を働き、またその道の玄人くろうとも子分として多く持っていたから、他郷から流れて来た盗賊をつかまえるのに、すじ・・つぼ・・をよく心得ていた。たいていの場合、子分を使って仕事をさせたが、彼自身が捕物に出かけてゆくことも多かった。
(よほど好きなのだ)
簫何しょうかは、劉邦が張り切っているといううわさを聞いて、内心おかしかった。
劉邦が、亭長 になったのをよほど喜んだということは、わざわざ新工夫のかんむりを作らせてかぶった一件でも察せられる。
亭長は、卑職ちはいえ、士である。士ならば、冠をかぶる。
「士」
であるということは、多少、時代への理解が要る。
古くへさかのぼりたい。
孔子を教祖とする儒家はいにしえとうとぶ。とくに周の礼制をたたえ、孔子自身、「周ハ二代ニかんがミ、郁郁乎いくいくこトシテ文ナルカナ」と賛美している。儒教はこの時代、法家主義の秦によって圧迫されて力はなかったが、要するに長いその後の儒教の歴史からみればまだ初期の時代だったと言っていい。儒教といえば多分に礼の教団であった。その内容をごく簡単にいえば貴族や紳士としてのお行儀作法を教える教団で、もっと端的に言えば古代の服制精神や作法こそ「郁郁たる」文明であるとする。よりいっそう簡単に言えば士たる者は冠を正しくかぶるという運動をする教団であった。
孔子の言う古代は、貴族の時代である。逆には、貴族に私有された農耕奴隷どれいの時代と言っていい。このため、士は素性すじょうであった。素性以外にも、高い学問技芸の持ち主は士と呼ばれた。冠は士たる者の身分と自覚をあらわすためのものであったために、単に服制てきなもの以上に思想的なものとして扱われてきたとさえいえる。
が、その後、戦国を経て社会の基盤が変化した。旺盛な自作農社会がひろがってゆき、門閥もんばつ貴族の力は弱くなり、戦国の国々を支えたのは、むしろ自作農とその階級出身の有能の士たちで、素性は一般に問われなくなった。士が消滅したというよりも万民が士になったというべき社会が戦国末期で、とくにしんのように辺疆へんきょうで成立した国家はこの点が極端であった。新帝国が成立すると、かつては一地域だけのものだった秦の法が全国に及んだために、素性による士は無くなりたれもが士になれた。
極端に言えば、
── 自分は士である。
と思えば、すでに士である。
秦への最初の反乱者である陳勝ちんしょうの、「王侯将相、いずくンゾしゅアランジャ」という言葉は、封建制を滅ぼした新帝国の社会原理そのものに根ざしていると言ってもいい。かといってたれもが冠をかぶるという酔狂なまねをしたわけではなかった。制度上、少なくとも官吏が士で、士たる冠をかぶった。
庶民はかぶらない。彼らは労働着にふさわしく頭にきんという小さな布切れをつけているだけであった。
たとえば、亭長 の劉邦には、数人の平民・・の部下がいる。亭父ていふとか求盗きゅうとうなどと呼ばれる番卒であったが、彼らは後頭部に白いきんをつけているだけで、冠はつけない。ともかくも、泗上しょうじょうのかいわいでは、劉邦一人が冠をかぶっていた。
その冠も、どこにでもあるというものではなく、彼自身が苦心して考案したもので、材料は竹の皮であった。竹の皮にはてらてらとつや・・がある。劉邦はこれを好んだ。さらにはに濃淡の微妙な文様が浮き出ているのもおもしろく、容貌、体躯とも堂々としている彼がこれをかぶると、たれもが目を見張ってしまう。
「劉さんの冠は、南方の聖獣の皮だ」
という者さえあった。
その竹の皮もこのあたりの細竹のそれではなく、せつ(山東省の滕県の東南)の竹からいだもので、劉邦はその竹の皮を入手するためにわざわざ番卒を薛まで使いにやったほどのものである。劉邦は才能に乏しいとはいえ、自分の押し出しや容儀を工夫するという点では、凡庸ではなかった。ついでなからこの竹の皮の冠はよほど彼が気に入っているものらしく、漢をおこして皇帝になってからでも日常はこれを用いた。世間ではこれをとくに、
劉氏冠りゅうしかん
とよんだ。どこか滑稽で、どこか大きく、人の目立たぬことろに取柄がありそうなこの男の感じが、劉邦冠ひとつに象徴されるようでもある。
2019/12/06
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