~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (五)
さて、一方、簫何である。
県より郡のほうがはるかに広域であったことは、いうまでもない。はい県の郡は、泗水しすい郡である。
郡の監督官を御史ぎょしという。簫何の吏才は御史の知るところとなって、抜擢ばってきされて郡吏になり、卒史そつし(警察部次長)をつとめた。郡衙ぐんがの所在地から劉邦のいる泗上は遠くなかったから、簫何は後盾うしろだてとなって劉邦の仕事のしやすいようにしてやった。
ところが御史は簫何の才をつぶさに見ていよいよ驚き、
「いっそ、中央の役人にならないか。任命されるよう、はからってやってもいい」
と、言った。中央任命ともなれば、堂々たる官で、現地採用のへんぺんたる吏ではなかったが、簫何は固く断った。沛県を出て来たことさえ、簫何は心愉こころたのしくは思っていなかった。
「私は、この土地で世を終わりとうございます。第一、沛よいう故郷が好きなのでございます。泗水郡ならば沛県の面倒を見るわけでございますから今の職を大変喜んでいるのでございますが、中央の官に栄達しますと、どこへ赴任させられるかわかりませぬ」
といって、鄭重ていちょうに断った。
ひとつにはこのころには秦帝国の行末が簫何には見えていて、中央の官途につけばどうなるかわからない、と思っている。それよりも泗水郡にとどまり、地縁と人縁のある沛との連絡を緊密にし、万が一の時には劉邦を担いで沛を守りたい、という構想が、ひそかに簫何の腹中には育っていた。

劉邦は、機嫌よく泗上の亭長をつとめている。
この時代、官吏には、
「五日ごとの洗沐せんもく
というものがあって、髪を洗うという名目による休暇が五日に一日あった。亭長は泊まり込みの職で、五日目ごとに、彼は外泊した。たまに、沛県豊邑ほうゆう中陽里ちゅうようりの家に帰った。
家では長兄の劉伯りゅうはくが農耕し、劉邦ぎらいのあによめが家政をみており、その中に混じって劉邦の妻のりょ氏が二人の息子を育てつつ、畑仕事や台所などを手伝っていた。嫂が意地悪で気の強い女だったから、呂氏の苦労が多く、彼女は後々までこの時代のうらみごとを言った。
劉邦も、嫂を好かなかった。彼が天下を取った時、兄弟の子をみな侯に任じたが、長兄の伯の子だけは黙殺した。老父の太公たいこうが「伯の子も何とかしてやってくれ」と彼に頼むと、彼はにがにがしい顔をして「あの嫂の子だけはいやです」と言ったほどだから、よほど彼も恨みを持っていたのであろう。彼はまだこの近在でうろついていたころ、家に友達を大勢連れて帰って来ては嫂に飯を食わしてやってくれ、と頼んだ。嫂は毎度のことでもあり、あるとき、「もうご飯はないよ」といわんばかりにして、シャモジで鍋の底をからからと音をたててこそぐまねをした。客は驚いて帰ってしまったが、劉邦があとで鍋を検分してみると十分飯が残っていた。
(なんという女だ)
と思い、彼は皇帝になってもこのたぐいの恨みは忘れなかった。同時にこの挿話は彼が生い立った境涯きょうがいがどんなものであるかをよくあらわしている。
休暇で帰宅するたびに、呂氏は劉邦に嫂のことをこぼした。
(まあ、いいじゃないか)
とそのちど言った。彼は好色であったが、女と面倒なやりとりをするのが苦手だった。
劉邦は休暇で帰っても、日が暮れるまで近所をほっつき歩いた。ある休みの日に、劉邦がほうの家に帰ってくると、呂氏が二人の息子を連れて畑に出ていて、そのあたりに居なかった。劉邦阿は、やむなく他家へ遊びに行った。
呂氏は、畑で草刈をしていた。そこへ旅の老人が通りかかって、路上から声をかけた。
「なにか飲むものを与えてくださらんか」
呂氏は田舎侠客きょうかくの娘だけに、こういうあたりの心配りも機転がいた。家に戻り、一椀のタンを老人に与え、さらに「お腹は、空いていらっしゃらないんですか」と聞くと、老人は、仰せの通りだ、と言った。呂氏が飯を持ってきてやると、老人はあぜ・・に坐ってそれを食った。食べ終えてからまじまじと呂氏の顔を見、やがて、
── 夫人ハ、天下ノ貴人ナリ。
あなたは大変な貴相だ、と言った。この時代、観相が流行していたことはすでに触れた。呂氏は相手が観相家だと知ると、長男を老人のそばに行かせ、
「この子も観て下さい」
と言った。
老人は長男の孝恵こうけいの顔を見るなり、
「わかった」
と、叫んだ。
「奥さん、あなたが将来貴人になられるというのは、この子によってです」
結果としては孝恵が二世皇帝になり、呂氏は皇太后になる。観相は当たった事になる。さらに老人は乳離れしてほどもない娘の魯元ろげんの顔を覗き込んで、「また貴シ」と言って頭をなで、つえを拾って立ち去った。
その直後、劉邦が近所から戻って来て、呂氏からこの話を聞いた。
劉邦は、
「おれも観てもらおう」
と、駈け出した。がらが大きいために、馬が二本脚で走っているようなおかしさがあった。
劉邦は老人に追いつき、自分はさきの亭主であり、かつ子供たちの父親である。うけたまわれば、彼等が貴人になるという、とすればこのおれはどういうことになります、と言った。
老人は一時間ほども劉邦を熟視していた。やがて、
「ああ」
と、吐息をついた。
「さきのお三方さんかたは、みなあなたの相によって貴いということがわかった。あなたの相を観ずるに、その貴さは、言葉に言い表せない」
劉邦は、
「かたじけない」
と言って、厚く辞儀をして、もし将来あなたのお言葉どおりになりましたら、御恩にむくいましょう、と言った。ただし、後日、劉邦が天下を取ったあと、手を尽くして老人を探してみたが、ついに行方が知れなかった。
2019/12/07
Next