~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (七)
劉邦は泗上しじょうにいる。
相変わらずり方の親方のような仕事に熱中していて、簫何が泗水の郡衙ぐんがからながめている印象では、大きな子供のようなものであった。劉邦にとって、仕事の性質が子供っぽければ子供っぽいほど熱中するようで、一面、公用の官吏が亭に泊まる時などは、大人のまねをせねばならず、このため理由を設けて遠くへ出たり、ともかく接待には熱心でない。簫何は、郡衙に来る旅の役人から、時々苦情を聞くことがある。
「泗上の竹の皮は、また不在だったよ」
そのつど、簫何は、
「ちかごろ流賊が出没しますので、彼もいそがしいのでございましょう」
と、かばったりした。
事実、流賊が非常な勢いでふえていた。
この時期、かつての秦王政が、始皇帝しこうていになってから十年になる。始皇帝のその短い在位期間でいえば最末期に入っている。普天の下で耕す者といえば老人と子供しか居ないのではないかと思われるほどに人民を徴発し、辺疆の軍役につかせたり、あちこちの土木事業に駆り立てたりしていた。
逃亡者が多く、彼らは郷村に帰れば逮捕されて殺されるために途中で流賊になり、食えないために他郷になだれこんでは糧食を奪い、官兵に追われては山中に逃げ込んだりしていた。
── 戦国の頃のほうがよかった。
と、思わぬ者はいない。
かつての戦国の頃、六国りっこく割拠かっきょしていた時はかえってその国々の内側では治安がよく、このような労役もなく、乱れもなかった。法治主義と官僚機構の整備yという点で世界史上もっとも先進的な国家をつくった秦は、その点で先進的でありすぎたのか、人民が国家や法の組織から肉離れしてしまい、厳格な法のもとでかえって治安が悪くなったという皮肉な状態が、いよいよ進行している。
労役の命令は、ついに泗上の亭長のもとにも来た。
「ついに来たか」
と、劉邦は、うんざりした。任俠肌の彼がかねがね大言壮語しているのは、
── かんに抗しみんを守る。
というもので、官の命令を服して民を郷村からひっぺがして首都の土木現場に引き連れて行くということは出来なかった。
しかし秦の制度は、この点では抜け目がなかった。人民を法の網から逃がさぬように、その名前を把握していた。
さきに、の中心は、もりに囲まれたしゃ(地主神の祠)であるということに触れた。
社は「書社」とも呼ばれる。里には、その二十五戸の住民の名がことごとく書き上げられた名簿があり、名簿は社に納められているために、書社ともよぶ。役人が巡視して来れば、里の人数と年齢がひと目でわかるわけで、労役や兵役で人間をちょうする場合、じつに便利であった。この書社の制は古くからあったが、秦において戸籍保存所のような機能も併せ持った。
2019/12/07
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