~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (八)
沛県では、挑発する名簿をつくり、各亭長に命じ、名簿通りの人数を揃えさせた。劉邦も加わった各亭の亭長たちがそれらを率いて沛の町に集まった時、談合の成り行きで、劉邦自身が引き連れて行くことになった。
「おれが連れて行くのか」
劉邦は、とっさに、いやだ、と言った。
「そういう仕事にはむかん」
「なぜだ」
一座のたれかが聞いた。
「劉邦だからだ」
それが、理由のすべてであった。詳しく理由を喋ろうにも、劉邦は弁が立たない。
「君は、亭長ではないか」
「劉邦であるほうが先だ」
なるほどそうであろう。
しかし一座の亭長たちは、言葉を尽くして劉邦に説き、おだてもした。おだてられると、結局、いい気分になって来て、行くことにした。常にそういうところがあった。それに彼が人足にわけでなく、人数を現場まで連れて行けば亭長である彼だけは帰るということも、彼の気を軽くしていた。
行く先は、驪山りざんである。
「皇帝陛下のみささぎの工事のためだ」
と、県の役人がくわしく指示していたから、仕事がどういうものであるかがわかる。
驪山というのは秦の咸陽かんようの東方にある。
始皇帝は六国を征服して統一帝国の皇帝となったと同時に、驪山に自分の陵墓をつくりはじめた。
地上に、周囲二キロ、高さ百メイートルという雄大な人工の山を出現させるのだが、この造山そのものは土木工事のほんの一部にすぎない。
問題は、地下であった。始皇帝は、死後、その地下に住むために小宇宙をつくり、その宇宙の中に大宮殿をおさめ込むというもので、小宇宙である墓室全体は分厚い鋼板でもって囲い、ゆかにあたる大きな平面には、黄河も揚子江ようすこうその他の諸河川も流れている。諸河川の水は水銀で、機械からくりの仕掛けで絶え間なく循環じゅんかんして流れているというものであった。天には蒼穹そうきゅうがひろがり、ぎょくでもって造られた日月がかがやき、おびただしい星宿がきらめいている。皇帝は万乗の軍隊を率いるものであるということで、宮殿には百官の席が設けられ、さらには皇帝は万乗の軍隊を率いるものであるということで、等身大の将軍、士卒の人形がおびただしく造られた。
始皇帝は、この工事をはじめた早々に、人夫として七十余万人の犯罪者を集めて労役させただ、このことは、彼がやった万里ばんりの長城や阿房宮あぼうきゅう、あるいは全土を結ぶ官用大道路(馳道ちどう)以上に技術と労働力を必要とするため、工事ははかどらなかった。
工事を総裁する長官にしてみれば、これを急ぐのも保身のよしあしということもあって、工事の日程上さほどの労働力を必要としないときは、他の土木現場に譲ったりしてきたために、進捗しんちょくが遅れていた。
工事は、すでに土をかぶせて山を造る段階に入っている。労働力がいくらあっても足りるということがなかったために、全土から百姓を徴発することになった。
秦の農民ほどつらい存在はなかった。租税は収穫の三分の二という重いもので、払いきれずに罰をうける者は犯罪者として土木現場に送られた。一家がえようとしても身をしぼるようにして税だけは払っていた農民も、こんどの場合のように一片の官命によって労役に引きずり出され、田畑はこのため荒れるに任せざるを得なかった。さらにはこのために翌年の税が払えなくなるのは自明であった。
労役の翌年は受刑人になってしまうのである。
2019/12/07
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