~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (九)
劉邦りゅうほうはそういう連中を五百人ばかり率いてはいの町を出発した。
西の方、雲煙万里ともいうべき咸陽をめざすのだが、途中、劉邦が交渉して村々に泊めてもらいことも、ありうる。しかし原則としては野宿であった。さらには、村に泊まるにせよ野宿にせよ、食糧はすべてこの一行が車に積み、あるいはその背にかついで行かねばならない。また煮炊にたききの道具も、自前であった。どの男もぼろ・・を着て浮浪人のようであったが、どの男も、大きな鍋やかまをかついで、自分が食うためのかてや道具でしつぶされそうになりながら歩いた。
(このあわれな連中を、咸陽・驪山まで連れて行くのか)
この引率役ばかりは、血や涙を持った人間のつとまるものではなかった。劉邦は人を憐れむ感情を多量に持った男ではなかったが、しかし人並みに持ち、持つだけでなくそれをあらわに言葉や態度に出す男であった。
「可哀そうじゃ」
行軍中、言いつづけた。
「見ておられんわい」
大きな冠をかぶった大男の劉邦が全身でそう言えば、たれの目にも、彼が仁慈の心を多量に持った男のように見えた。むろん、劉邦は口だけでなく心底からそう思ってのことだったが、しかしこういう場合も、その大柄の体と美髯びぜんとが格別な効果を発揮した。劉邦はどう見ても、徳者のように見えた。さらに、彼は、道々、
「こんな馬鹿な世の中があってたまるか」
とも、大声で言った。やがて引率されている人々も、なんだか咸陽に向かって歩いていることが馬鹿々々しくなった。
かといって、劉邦は乱を起こすつもりもなく、ましてそのために人々を扇動せんどうしているつもりもなかった。彼らを咸陽・驪山に送り届けることによって亭長としてのつとめを果たすという平凡な目的のほか、べつに強い思惑おもわくなど持っていなかった。ただ、性格が引率という律義りちぎさを必要とする仕事に向いておあらず、そのための平素の不平がつい口をいて出てしまう。
劉邦のとっては唄のようなものであったが、人々にすればこういう引率者を上にいただ いてまともに歩いていられるものではなかった。
(いっそ、逃げるか)
という気分が、最初からこの行列をおおった。
沛県の城内を歩いているぶんには、全員の内のたれかの出身の里があるために野宿の心配はなかった。
「ひとたび沛県を出ると、大変だぞ。やまいぬが出るか、狼が出るか」
などと引率者の劉邦は、大声で言うのである。
第一日目は、すでに連絡してあった里の幾つかに分宿して泊まった。
翌朝、劉邦は自分の中陽里出身の親しい者にゆり起こされた。
どうも様子が変だという。みなを路上に集めてみると、半数ほど消えていた。劉邦がいかに甘い引率者であったかということが、この一事でもわかる。
「ほほう」
こういう場合の劉邦というのは、じつに景色がよかった。彼は窮地ということについての感覚が鈍感なのか、しおたれたり狼狽ろうばいしたりはせず、かといって見え透いた空元気からげんきも出さず、春の日の湖のように泰然としていた。
「まあ、いい」
と言って、第二日目の行軍をした。
第二日目は、劉邦の故郷の豊邑ほうゆうで泊まった。いくつかの里に分宿したが、やはり翌朝、目がめてみると、様子が違っていた。前日に逃げた連中で、逃げると郷村にも帰れず飢餓きがだけが待っていることに気付き、戻ってきている連中もいたし、あらたに消えた連中もあり、ともかくも人数は定員の半数前後であった。
劉邦のおもしろさは、何という里のたれが逃げたかということを、一切詮索せんさくしないことであった。ただ、戻って来た男たちには、
「やあ、おまえ、もどってきたか」
と声をかけてやった。
2019/12/08
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