~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (十)
三日目に、この国家の奴隷たちは沛県を離れた。わずかに沛県を西に去ったというだけで、
── もう沛県ではないのか。
ということが、農民たちをおびえさせた。故郷から動かないというのが農民の美徳とされており、彼らの多くは、隣県の土を踏んだだけで、山河の色まで別世界に見えるような心細さを覚えた。
三日目は野宿した。
翌朝、起きてみると、また減っていた。このぶんでゆけば、咸陽に着くころには、劉邦一人になっているのではないか。
(これは、殺されるなあ)
劉邦は、四日目の行軍をしながら、思った。たとえ一人欠けても引率者に対する追求が激しい。
半数も逃げさせてしまったとなれば、劉邦は咸陽に着くとともに間違いなく死刑になる。のちの陳勝・呉広も、兵役に服するための農民に混じって途中大雨と洪水に遭い、とても所定の期日に到着できる見込みがなくなったとき、窮して反乱に立ち上がったのだが、この時、行く死、逃げるも死であるということが彼らを反乱に踏み切らせた。この場合の劉邦もむろん変らない。
劉邦は町を通過した時、所持していた官給の路銀でもって酒を大甕おおかめごと買わせ、それを郊外まで運び、野原で簡素な酒宴を開いた。
(自暴やけ酒を飲んでやれ)
劉邦は、その程度にのんきで、いわばなまけものでもあった。後日の陳勝・呉広は男どもを扇動して反乱に立ち上がったが、劉邦に比べれば反乱にちあがるだけ働き者であったと言えるであろう。
劉邦は、路銀を流用して酒でも飲みくらうしか思いつかなかった。もっとも劉邦という男は陳勝・呉広よりは臆病でもあった。臆病という感覚があるだけに勢いの大小についてはよくわかっており、いま秦に対して反乱に起ちあがっても潰されるだけだということはよくわかっていた。
この時も、
「歩きくたびれた」
というのが、野外の酒宴の理由であった。
「なんだ、おれを置き去りにしてさっさと逃げちまいやがって」
劉邦は、酔うにつれ、愚痴が出た。もっとも彼は愚痴を言いつつも、逃げた連中の行末を思って、心をいためていた。故郷に帰っても、司直の手が待っているのである。
「あいつらは、どうするのだ」
劉邦は、ふと涙ぐんだ。
「しかし、逃げずに咸陽かんよう驪山りざんに辿りついたところで、みなの命がどうなるかわからない」
とも言った。引率者として言うべからざることであった。
「着けば刑に遭う。そのことは、わしが八方べんじてやるから、まぬがれるとして」
劉邦は、酔っていた。
「あとのことは、わからない」
つまりは、驪山の地下宮殿には、財宝がずっしりおさめられている。うわさでは、盗掘防止のための石火矢の仕掛けさえ施されているという。盗掘人が入れば自動的に機械からくりが動き、矢が飛んで射殺してしまうというものであった。さらに始皇帝のあの生前墓の地上部分があれほど巨大な堆丘たいきゅうとして盛りあげられるのは、堆丘のどの一点を垂直に掘れば地下宮殿に至るかということをわかいにくくするためだとも言われていた。しかし工事の人夫に駆り出された者は、地下の地理はほぼわかっており、このために工事が終わればおう(みなごろし)にされるという噂も流れていた。
劉邦、はついそのことを言った。
百姓たちは、元来、口が重い。
ごく農民くさい劉邦程度の男でも、百姓たちからみれば都会的な饒舌家じょうぜつかであり、言葉の回転の早さに彼らの理解力が容易についていけないのだが、「鏖」というおんを聞いたときに、一様に顔色が変わった。
「みなごろしでございますか」
口々に、言った。
「工事の終わるまで生かされる」
劉邦は、酔った舌で答えた。
「すぐ殺されるわけではないのでございますな」
「すぐ殺されるのは、このおれだ」
劉邦はそういう言葉を口から出したあと、言葉にそそのかされたようにして身の内がふるえてきた。
こういう場合、この男は虚勢を張ることがない。しばらく目をゆぶってわが身の慄えるがままにまかせている。
人々は息を殺してそういう劉邦を見つめていた。やがて劉邦は横の男から杯を奪い、口にふくみ、体の中で煮こごりのようなものをすこしずつかした。やがて、
「おれは、この場から逃げるよ」
と、言った。静かな表情でいる。
こういう場合、陳勝・呉広にせよ、他の者にせよ、この大陸に住む人間はたいてい他人の脳裏に刻みこむような名文句を吐くのだが、劉邦にはそういう芸がなく、ただそれだけを言った。
一同、驚いた。
「亭長様自らがお逃げになるとすると、私どもはどうなるのでございます」
「どこへでも行け。わしについてきたいと言う者があれば、ついてきてもいい」
亭長は流賊になる気だ、と一同は思った。この時代、逃げれば自動的に流賊にならざるを得ず、それ以外に生き方がなかった。
(何人がついてくるか)
劉邦は思ったが、名乗り出たのはわずか十余人でしかなかった。ともかくもこの瞬間から、劉邦は秦帝国の抗民とまでいえなかったが、逃亡者になった。革命が起こってあらたな国家がおこらないかぎり、永久に逃亡を続けざるを得ない運命を選んだ。
2019/12/09
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