~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (十一)
劉邦は、立ち上がってこの場を離れ、野を歩きだした。
ゆらゆらと歩いて行く、酔いが、激しくなわりはじめていた。新たに彼の子分になった十余人の者は、持てるだけの食糧をかつぎ、鍋釜を背負い、劉邦のあとを追った。
「どこへ行くのでございます」
と、たれかが追いすがって尋ねたが、劉邦にもわからない。
「あっちだ」
とのみ、指さし、自分の指の方向へ彼自身もひきずられるようにして歩きだした。その方向さえとれば、官道から遠ざかる。官道から遠ざかれば遠ざかるほど、追捕ついぶをうける危険は少なくなる。
(なんでもいい、ともかく、めあて・・・があるような顔をして歩くのだ)
劉邦は、酔いながらもこの一事だけは自分に言いきかせ続けた。もし途方に暮れた様子をすれば、子分たちは心細がって散ってしまう。
(おれには、子分が必要なのだ)
子分が散ってしまっては、自分のような男は生きてゆけないということを劉邦は知っていた。
一昼夜歩き、翌日は昼は寝て、夜、歩いた。
行くにつれて地は低くなり、沼沢しょうたくが多くなった。みずはけが悪いために耕地がなく、従って人家もない。沼と沼との間の道は、くつがのめりこむほど湿っている。夜になったが、月光のために足もとは明るい。劉邦はひたすらに歩いた。歩きながら、ひさごを取り出して飲んだ。飲まずにこのあてどもない時間の中を漂ってゆく神経は、さすがの劉邦にもなかった。
冠をつけた士の分際の者は、労働をしないことが古来の原則である。このため、劉邦は、先登に立って道の様子をさぐるということはせず、夜目のく者を選び、先行させた。劉邦は、数人でそのあとを進む。ともすれば左右の沼に足をすべらしそうになるほど、道は細く、あやうかった。
やがて先行の者があわただしく駈け戻って来て、このさきは通れません。と報告した。聞くと、沼からいあがった大蛇が小径こみちに胴を横たえて動かないでいるという。聞いた途端、劉邦の壮気が酔いに乗って全身をかけめぐった。わしは壮士である、壮士とは勇往しておそれざる者をいうのだ、と叫びつつ前進した。
なるほど、こみちに丸太を倒したようにして灰白色の大蛇が横たわっていた。
「こいつか」
劉邦は剣をふりあげ、力まかせに大蛇の胴をち、狂ったような勢いで撃ちに撃って胴を両断してしまった。劉邦は酔っている。あとは忘れたように道を進み、行くこと数里、ついに大醉を発して路傍に眠り込んでしまった。
このため、あとのことは劉邦は知らない。
最後尾を歩いていた者が、寸断された蛇のところまで来た時、老婆が一人うずくまっていていたというのである。
以下は、のちにしょうかか、簫何に近い者が創った流布るふ用の話ではないかと思われるが、内容はまことにすさまじい。
なぜあなたは哭いているのです。と聞くと、わが子が殺された。。と老婆が言う、なぜあなたの子が殺されたのか、と最後尾の者がたずねると、自分の子は白帝はくていの子である、姿を変えて蛇にり、この小径に横たわっていたのだが、そこへ赤帝せきていの子が通りかかり、斬ってしまった、と言うのである。となれば、劉邦は赤帝の子であるということになる。
この話は、もし創作されたものであるとすれば、創作者はよほど物識ものしりであるに相違ない。しんの帝室が王国の頃から白帝をまつっていたという事実を踏まえているのである。白帝の子を斬ったということは秦を倒す者が劉邦であるということになる。
劉邦はその配下と共にはい地方の中の沼沢に隠れたが、このたびは盗賊働きはしなかった。盗めば住民たちが離反する。盗まねば、ふつう、食えない。その食えないという事情を彼は克服こくふくした。簫何の智恵であった。
簫何は、劉邦が逃げ戻って沼沢に隠れたという事を知ると、沛地方において、劉邦に同情的な里や戸を、秘密裏にすこしずつ組織して行ったのである。
秘密の劉邦党ともいうべきものが組織され、それに加盟する農家から、後年の私軍がみなそれをやったように、内々の租税を出させた。農家としては二重に租税を取られることは辛いことであったが、しかし、秘密の工作にやって来る説得者たちから、
── 秦の世を終わらせたくないのか。出来るだけ早く終わらせねばならない。いまお前たちが別途に穀物を供出せねばならぬのは辛かろうが、それによって将来のしあわせな世が保証されるのだ。
と説かれると、その気になる者が多かった。以後、ながい中国の歴史に中で、革命を起こす者の伝統的な型を、劉邦は創ったことになっる。
2019/12/10
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