~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (十三)
には、父老ふろうという者がいる。
ふつう、五十歳以上の者で徳望のある者が、里の安寧あんねいを守り、風教のための師表のようになっている。集落が、一人または数人の父老を選んでその人格的な教化に服するというのは、中国の住民社会ではごく自然法的な存在として古代から続いてきたものらしい。
人間の世は、集落が先に存在した。王朝は忍び足で、あるいは軍靴であとからやって来て、その上にかぶさった。
かぶさったとはいえ、歴世の王朝はこの自然法的な集落秩序に対し、基本としてそれを尊重してきた。王権は決して集落のかきを越えて内部の父老政治に立ち入ることはない。
ただ、秦の体制は例外であった。人民を、里単位でなく個人単位で国家と法に直結させるというのが法家ほうかの基本思想の一つ──この点、近代国家に似ている──であったために、国家が里の牆の中に入り込む面が強かった。そういう秦といえども、古代以来の集落の自治制はある程度重んじ、一面において統制を厳格にするために、本来、何者が父老であるかかかりにくかった面をあらため、任命制にしている点が、古代のそれに比べて異なる。ただしやや陰翳いんえいが異なるだけのことで、父老そのものの本質や実態には、さほどの変化はない。
劉邦の故郷である中陽里にも、むろん、
「父老」
という者がいる。
ある日、劉邦の隠れ家に、仲陽里の父老がやって来た。
案内者は、妻の呂氏である。それ以外に、同行者はいない。
「どうして、ここがわかったのだ」
劉邦は、驚いて呂氏に聞いた。なにしろ呂氏が劉邦を沼沢しょうたくの間に訪ねて来たのは、これが最初であった。劉邦にすれば驚かざるを得ない。
「なぜわかった」
「あなたのいらっしゃる所は、すぐわかりますよ」
呂氏は、笑った。雲気うんきが立っているのだという。劉邦が移動すればしの雲気も移動するために、それをめあてに行けばわかるのだ、と呂氏は言った。
「雲気が?」
劉邦も、初耳である。
「そういうものが、おれの上に立っているのか」
雲気など立っているはずはなかったが、おそらく簫何が、人を通じて呂氏に劉邦の隠れ家を教え、ついでに雲気の一件も言い含めたのに違いない。
ろうが御覧になっても、わかりますか」
劉邦は、態度を改めて父老に聞いた。劉邦のように尊大で行儀の悪い男でさえ、自分の里の父老には父に対する如くうやまう。
「わしには、わからない」
父老は、おだやかに微笑して、ただ、ここへ来るまでの間、道に迷うと呂氏が高所に立ち、彼女だけに見える雲気をさがし、あらためて道を選んで進んだ。わしの目にはわからないが、実在することは確かだ、しかし自分の雲気を自分でわからないというのは、お前ものんきものだな、と老人は笑った。
この雲気についての噂はたちまち沛の町にも伝わり、若者の間で、ぜひ劉公に随身したいという者が増えた。簫何の策というのは、じつにきめ・・がこまかい。
2019/12/11
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