~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (十四)
始皇帝しこうていが死んだ。
その翌年の七月、雨がつづいた。沼沢も地は、ただでさえ湿気に満ちている。水辺にあるわずかな竹木のかげで暮らしている劉邦にとって、愉快な日々ではなかった。そうしたある日、よく似た沼沢地帯である宿県の大沢郷だいたくきょうというところで反乱がおこった、という噂が、沛の秘密後方員から届いた。
日に日に情報は届き、日に日に内容がくわしくわかった。
陳勝・呉広の反乱である。
この両人は、兵士要員として九百人の中にまじっていたが、二人が話し合って反乱を決意した時に、簫何が劉邦を素材として施したような手のこんだことは、状況上、出来なかった。
かんじんの内部を工作するについては、簫何がやった策と似たことをやった。たとえば絹切きぬぎれに、「陳勝が王になるだろう」という言葉を朱文字で書き、漁師がった魚の腹の中にこっそり入れておき、その魚を買った壮丁がそれを見て神託かと驚く── げんに驚いた ── というふうに細工したりした。またべつに奇計をほどこした。弟分の呉広がもりの中のしゃに入り、夜、狐のき声を真似まねた。この時代、里の中の社というのは、一般に里人が掃き清めるという信仰習慣を持たないため、ねずみ・・・と狐の巣になっていたから、狐の啼き声は唐突ではない。にせ・・の狐である呉広は、啼き声のあいまに、するどく澄んだ声で、
   タア チユウ シン
   チエン シヨン ワン
と、くりかえし叫んだ。大楚(壮丁たちは、亡楚の出身者である)が興り、陳勝が王になるぞ、という意味である。
たれもが、この神異に驚いた。
ついでなから、陳勝・呉広は、当初、この大沢郷で窮していた壮丁九百人をもって挙兵したが、たちまち一ヶ月以内に戦車六、七百輛、歩兵数万、騎兵千騎という大軍にふくれあがった。ただしのち敗亡したために、その挙兵についての神話が、彼らの創作であったとして公然と語られたが、劉邦の場合、結果としては漢帝国の初代皇帝になったために、赤帝の子という噂も雲気の話も、その他すべての怪奇が、創作ではなく天意もしくは天意によってされた瑞兆ずいちょうであるとされた。
ともかくも、天下は乱れはじめた。

秦帝国ほど、不思議な帝国はない。
徹底的な法家主義をとりながら ── 官僚も人民もすべてが自然的存在でなく人間はすべて法の上の仮称にすぎないといえるほどに法にくみこんでいながら── 始皇帝一人が法を超越していた。彼だけは法に拘束されず、地上唯一のなまの自然人であり、同時に法の唯一の源泉であった。このため、唯一の自然人である彼が死ぬと、法までがけてしまった。
この場合、秦の法は蜘蛛くもの網に似ていた。始皇帝という巨大な一匹の蜘蛛が死ぬとその網までが力をうしない、かねて網によって権力を持たされていた官僚たちはただの人間になってしまい、人民たちは、意識としてはもとの自然法的な群居の感覚にもどった。

沛の町も、例外ではない。かつて王以上に強権を持っていた県令は日に日に勢威を失い、かわって昔ながらの父老ふろうが活躍しはじめた。
いうまでもなく沛は城郭にかこまれた都市機構である。都市の中にもいくつかの(この場合、町内に相当するであろう)がある。それぞれの里は碁盤の目のように区劃くかくされていて、それぞれの里ごとに複数の父老がいる。それらの里の父老のうち、とくに人望ある者が沛の町全体の父老として選ばれている。これらは、江戸期日本の江戸や大坂の市政における町人代表ともいうべき町年寄まちとしよりや総町年寄に相当する。
人々は、町の自衛については、これら父老を中心に相談しはじめた。
何よりもまず町の自衛体制を確立せねばならない。秦の法が町を防衛してくれるわけでゃなかったのである。このことは火急を要した。たとえば陳勝・呉広の軍が攻めて来るかも知れず、彼らが攻めて来ないにしても、他の県ごとに成立するであろう私軍が攻めて来るおそれがある。つまり、他の県が攻めて来る。情報は十分ではなかったが、いくつかの郡衙ぐんがや県庁の所在地で、市民の手で郡の御史ぎょしが殺されたり、県令が殺されたりしているという噂もあった。
2019/12/12
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