~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
挙 兵 (十五)
簫何しょうかは、泗水しすの郡衙から逃げ出して、沛の町にもどっている。
事態が切迫してから、県令は簫何を呼び、
「一体どうすればよいのか」
と、相談した。
「いっそわしも秦に反乱し、県軍を率いて大楚将軍(陳勝)のもとにせ参じたい。それ以外にない。ついては兵を集めてくれないか」
と、頼んだ。
簫何は、気の毒そうに、
「あなたは、秦の中央から派遣された官吏なのです」
と、言いきかせざるを得なかった。
曹参そうしんもこの場に居て、
「あなたの命令では、沛県は子供一人動かないでしょう」
「いっそ、この沛県出身の者で無人の沼沢しょうたくに逃亡している者たちをお呼びになって、彼らに沛をまもらせるほうがよいでしょう」
と、曹参らしくおだやかな調子で言った。県令はこの言葉を聞いてはじめて恐怖の色をうかべた。
念のために簫何をかえいみて意見を求めた。
「私も、曹参と同意見です」
と、静かに言ったので、県令はいよいよおびえ、この両人に従わざるを得なかった。沛の父老たちが簫何を圧倒的に支持していることは県令も気付いている。簫何の意見に逆らえば、沛の土地に寸刻も居ることは出来ないということは、理性よりも恐怖でわかっていた。
「ではそうする」
と、県令がうなずいた。簫何はいぬの屠殺夫の樊噲はんかいを庁舎に呼び、ただちに劉邦のもとに使いせよ、と言った。口上は、軍隊を率いて沛に入城してもらいたい、われわれは沛の町の城門を披いて貴軍をお待ちしている、ということだ、と言った。
樊噲は質僕しつぼくで、およそ浮華ということから遠い。が、この時ばかりはよほど嬉しかったのか、飛び上がった。すぐさま駈け出そうとしたのを簫何は呼び止め、
「忘れていた。以上のことは、県令閣下のご依頼だという事を劉将軍に伝えてもらいたい」
と、言った。県令の命令ではなく依頼だと言ったのは、簫何が勝手に付け加えた解釈である。法的にいえば県令は、「自分も秦にそむく」と言った時に県令ではなくなっており、今は一私人にすぎない。であれば劉邦に対する命令権などはなく、依頼しているだけのことである。県令が劉邦に対して約束できることは、「城門を開いておく」ということだけであった。
「簫何、命令というべきではないか」
県令は、色をなして言った。
「ご依頼というほうが穏当でございます」
「なぜだ」
「県令はすでに秦にむほん・・・をするということで、秦の法に背かれました。今は私人であられます」
と、諭すように言った。
県令はこの簫何の態度を見て、気味悪くなった。
(あいつは、劉邦の党ではあるまいか)
時間が経つにつれ疑惑は濃くなり、考えが変わった。他の吏僚を呼び、
「城門を閉じよ。何人なんびとといえども入れるな」
と命じた。人々は、四方の城門に向かって走った。
2019/12/12
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