~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (一)
しんたが・・は、はずれた。
が、秦の首都咸陽かんようは、一見、平静であるかのようである。都城の大路を往来している市人も様子ものどかで、兵乱についても、せいぜい東方で餓えた土寇どこうが騒いでいるそうな、という程度の印象でしかなかった。
「われわれは関中かんちゅうにいる」
ひとつには、そういう地理的な安堵あんど 感が咸陽の士庶の気持の基底にあるのであろう。外界(東方)の物音はすべて函谷関の天嶮でさえぎられてしまい、関中までは容易に聞こえて来ない。
「関中」
なんというひびきであろう。
  土くささ。
  どこか異民族めいたにおい。
  辺疆の盆地。
  しかしながらふしぎなゆたかさ。
  鉄のような法。
  天下の離れ座敷。
そういう感じを、この地域名はひびかせている。
関中盆地は、この大陸の漢民族圏のなかにあっては西にかたよりすぎている。そのために西域への通路にあたり、はるかな西方の文物が流入しやすい点、陸の貿易港という機能を持っていた。また北方の異民族に対しては簫関しょうかんの嶮がさえぎり、西は散関がそそり立つ。南は武関がこの盆地を守り、もっとも重要な方向である東方の中原ちゅうげんに対しては函谷関という天下の嶮がこれを守っている。
天嶮であるだけでない。関中をつらぬいて渭水いすいという大流が流れていることは、人々の暮らしに無限の豊かさを保証していた。渭水には支流が多い。細流を含めれば無数の流れが黄土大地をうるおしていた。
単に自然の河川があるだけでなく、戦国末期に灌漑かんがい水路が発達し、可耕面積が大きく、大きな人口を養う能力を持っていた。戦国のある時期、秦が都をうつしてこの盆地の咸陽に定めた時、すでに秦の天下制覇の条件の重要な部分が成立していたといえなくはなかった。
関中は、金城千里と言われた。

咸陽の都市は、渭水の大にまたがっている。
水と街路樹に映えた建造物群の壮麗さは、宮殿か官衙かんがだけではなかった。始皇帝が大陸を統一すると天下の富家十二万戸に命じ、強制的に咸陽に移住させて宏壮な建物をつくらせた。さらには始皇帝はその征服事業の進行中、国々を攻め潰すごとにそれを記念し、つぶした王国の宮殿を、記念構造物として渭水のほとりに建てさせた。
「咸陽は天の府である」
と、当時、いわれた。この時代、西方のローマの存在については、かすかに伝わっていたかと思われる。都市としての咸陽の栄えは、十分それに対抗し得るものであったろう。
つづいて始皇帝は阿房宮あぼうきゅうといわれる世界最大の宮殿を建てようとし、その造営なかばで死んだ。
「阿房宮の造営を急げ」
と叱咤しつづけているのは、胡亥こがいという不思議な名前で呼ばれていた二世皇帝であった。この若者が即位して最初に宣した命令も、そのことである。さらには一方、先帝の陵墓である驪山りざん稜の工事を急がせた。
このため、これらの工事に徴用された何十万という人夫が、咸陽の内外で働き、起居し、しまたを往来していた。
さらに言えば咸陽に何万という官僚がいたし、より重要なことは始皇帝以来の直轄ちょっかつ部隊五万人が咸陽を守って日常射術の訓練を重ねている。街衢がいくで見る日常の風景としては、始皇帝の生存時代と少しも変わりがないのである。
20191/12/13
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