~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (四)
一方、中原ちゅうげんでは雨の日が多い。
二世皇帝胡亥の元年七月に大沢郷だいたくきょうで窮し、やぶれかぶれの勢いで挙兵した陳勝ちんしょう呉広ごこうの流民軍は、雨と泥の中でみるみる人数がふくらんだ。
その軍容は最初、ひどいものであった。数百の流民が、木をって武器とし、竿さおをかかげて旗としのだが、近在のしんの正規軍を急襲してこれをくだし、その武器を手に入れたために、少しは軍隊らしくなった。
は誰あろう、扶蘇ふそである。これなる将軍(呉広)は、亡楚ぼうその名将項燕こうえんだ」
と、陳勝は四方八方に触れてまわらせた。
このことはよほど大きな効果があった。始皇帝の長子扶蘇は、人柄の優しさで評判がよかったのに、趙高の為に謀殺された。が、世間はまだ生きていると思っている。扶蘇という人気のある皇帝継承の資格者が挙兵し、胡亥に対して退位をせまれば、かならずその軍勢は大きくなり、勝つに決まっている。人々は、当然ながら勝つ側に味方したい。その上、呉広が亡楚の項燕将軍に化けていることも大きかった。扶蘇だけでは人気が有るに過ぎない。項燕という名将がたすけてはじめて信用の裏打ちがあるというののであった。項燕がとっくの昔に死んだ歴史上の人物であるということなどは民衆の知るところではない。
陳勝は、そういうはったりだけで出来ている。
(虚喝はったり以外に、おれに何があるか)
と、陳勝は開き直っていた。彼は農民出身といっても一枚の田畑もなく、他家に日雇ひやといでやとわてて暮らしてきた。この時代、法家主義の秦でさえ将軍というのは大地主の出身が多い。大地主であればこそ食客がいていざというときには参謀になって、小作どもが親衛隊として一軍の核になる。徒手空拳としゅくうけんの陳勝が大きな人数を集めようとすれば、巧妙で大胆な虚喝しか方法がなかった。
陳勝においては、軍略の才さえあやしかった。ただ陳勝はひとたび調子づくと際限もなく勢いに乗ってゆける男で、たちまちにして彼は車騎を従えるのにふさわしい風貌をしなえた。
形勢が、陳勝に味方した。
彼は大沢郷一円を従えると、躊躇ちゅうちょせず近在の田舎いなか町の(今の安徽あんき省の宿しゅく県)を攻め落とし、つづいてちつさん しょう といったその付近の町々を降伏させ、秦の兵士、食料、武器をうばい、その勢いを駆って今の河南省になだれこんだ。その時はすでに、車が約六百乗、騎馬が約千騎、歩兵数万という大軍に膨れ上がっていた。この陣容は、もはや流賊とはいえない。
あとは、陳の町を攻める。これを陥せば、勢いはさらに大きくなる。
「陳へ。──」
彼の軍の合言葉になった。
「陳」
赤い城壁 かべとうつくしい並木町。
楚人のふるさと。
と、たれかがうたった。たちまち一軍に広がり、軍歌のように歌われた。
(今の河南省淮陽 わいよう)は、戦国の末期、楚が転々と都を移して最後に王都とした城市で、新帝国ができてからもここに都の中心を置き、郡の長官が広大な土地人民を支配していた。
陳勝の軍には、陳勝自身もそうであったが、楚人が多い。楚人は中原 ちゅうげんの漢民族から半ば異民あつかいを受けているだけに、異俗を保持していた。
たとえば楚人は庶民でもかんむりをかぶっている。それもひと目で楚人とわかる独特の冠であった。
さらにたとえば、楚人がおおぜい集まって気勢をあげるときは、いっせいに、一動作で、ひるがえるように右肩をぬぐ。まことに威勢がよかった。
いなおうか」
というと、群衆は、
「応」
と、どよめき、いっせいに右肩をぬぐのである。
「われらはき楚の民である。亡楚の都陳城をとりかえして楚を復興しよう」
と、陳勝が演説すると、楚人たちはいっせいに、
大楚タアチュウ
と叫び、右肩をぬいだ。楚人以外の者までが楚人にならってあわてて右肩をぬいだ。
2019/12/16
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