~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (五)
勢いというほかない・この大軍が陳の赤い城壁にひたひたと迫ったころには、郡の長官は恐れて逃げてしまい、わずかに郡の属官の守丞しゅじょうの職にある者が城の楼門を守り手兵を指揮して戦った。それもすぐ殲滅せんめつされた。
陳勝は銀甲をきらめかして入城し、この陳を根拠地とした。楚の古都だけに、この城市の主となったことは、楚王にでもなったような印象を世間に与えた。げんに四方の流賊の真理としては陳勝を盟主として仰ぎ見るような気持ちを持った。たとえばはいの町で兵をあげた劉邦さえその心理を共有していた史、さらには呉中(今の蘇州)で挙兵した項梁・項羽も同様であった。彼らは挙兵したもののそれぞれの小さな町で兵を維持していることは出来ない。いそぎ陳勝将軍の幕下ばっかに入って大勢力に中に身を置きたいということを、さしあたっての行動目標とした。陳勝は、まことに奇功の人だった。大沢郷で挙兵したのは、わずか二ヶ月前だったではないか。
(成功とは、これほど容易なものか)
という事を、古今、陳勝ほど感じた男はなかったであろう。
ともかくも陳勝の威勢はふくらむ一方であった。
彼は陳の都城の中でじっとしておればよかった。坐っているだけでその評判の方がひとり天下をけまわった。とくに彼が制圧している版図はんとから近いあたり──現在の安徽省、江蘇省、河南省──の大小の流賊団はにな彼を慕い、争って彼の系列下に入ろうとした。陳勝は最初にひじをあげて大胆にも秦という山に向かって石を投じた。そのために積雪が崩れ、大雪崩おおなだれがおこった。
(それだけのことだ)
と、冷静に陳勝の動きを見ている者が、いないではない。

居巣きょそうにいる老人も、そのうちの一人である。
この陳の都城から南の、さほど遠くない所に、巣湖という琵琶湖びわこほどの湖が似たような水の色をたたえている。その畔にあるのが、居巣きょそうという町である。そこで多少の田畑をち、多少の暮らしのゆとりと多少の書物を所有し、ときに書を読み、ときに人を批評して暮らしている人物がいる。
范増はんぞううという。
このとし、七十である。
としからいえば、老翁といっていい。が、仔山羊こやぎのように澄んだ目と小さな顔、細い手足を持ち、素早く歩き、物に感じてはあらわに驚き、あるいは怒り、ときに滑稽こっけいを感ずると笑いがとまらないというあたり、少年のようである。
かつての楚の時代、他郷に出て小役人をしていたともいわれ、また楚の貴族の食客をしていたともいわれるが、少年期がなおも続いているような范増自身、自分の過去に何の興味もないらしく、語ったことがない。
かたくななところがあるが、齢のせいではない。
「節義のせいだ」
と、范増はいつも言う。
節義とは亡楚への義で、
「范増とは何か、楚の遺民である」
と、自分を規定している。
「范増とは何か」
楚が再び起こるのをこの目で見たいということだ、と范増は言う。
その心根こころねの象徴のようにして、この老人はいつも楚人冠そじんかんをかぶっていた。楚冠ともいい、南冠ともいう。この冠は羊の一種といわれる動物の皮でつくられたもので、形といい材質といい、北方の漢民族の冠とはひどくちがっている。かつて楚が栄えていたころ、楚王がこれをかぶり、臣下では正邪を判別する司法官以外にはこれをかぶらせなかった。楚が亡んでそういう冠の制はなくなったが、ともかくも范増はその遺臣意識のしるしとしてこれを用いている。
2019/12/16
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