~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (六)
陳勝の意外な成功は、范増の住む居巣の町にも当然聞こえている。
人心が大いに動き、ふるって陳勝の傘下さんかに入ろうとする者もいた。
しかし、一方、
── 陳を制した将軍は、偽って扶蘇ふそと言い、項燕であるなどと称している。
と、ひややかに評する者もいた。楚人は出自しゅつじをおもんじる。このあたり、中原よりひなびているといっていい。
このひさびをどう理解していいか。
中原は、粟や麦、その他雑穀の農業で、それらの生産物を互いに交易して有無通じあうという貨幣経済が古くから発達し、さらには毛皮や馬を持ち込む異民族との交渉も活発で、諸事、刺激が多かった。これらの諸要素が入り混じって、貴族と奴隷を主題とする古代がはやい時代に崩れ、新興の地主階級の社会になっていた。
楚は、やや事情を異にする。
ここは稲の国であった。米というほぼそれだけで生きて行ける穀物で社会が出来上がっているために、自給自足が容易で、貨幣経済が農村に浸透するところが中原に比べて少ない。
ここでは、古代がより多量に残っているのではないかと思える。
たとえば、秦以前の戦国時代、どの国でも社会の変動がはげしく、下克上がさかんであった。
が、楚にだけはなかった。
亡楚にあっては世襲の門閥が、依然として政治や軍事を受け持っていたということ自体、中原では考えられぬことであった。しかも楚人たちはそれら門閥に対し、
「世族」
と呼んで、特別の尊敬を払っていた。 この特殊家族の中で最高の家格を持つ家は、たとえば楚の悲劇的な詩人屈原くつげんの出た屈氏もそうである。また景氏、昭氏といった家も、屈氏とならんで政治・軍事を担当する名家だった。楚の名将項燕こうえんの出た項氏は、右の三家よりは、やや家格が低い。それでもなお、陳勝が挙兵するに当たって、呉広に、
「項燕」
と名乗らせたのは、単に項燕が伝説的名将であるというだけではなく、門閥が生きている楚の地帯の信用をつなごうろしたためであった。
しかしながら、陳勝軍が陳の都城を制したという段階で、呉広の鍍金めつきげ、あれは陽夏ようか(河南省大康)の無名の百姓にすぎない、ということがわかってきた。居巣に住む范増の耳にも、むろんその種の雑多な情報が入っている。
「居巣では、范増の目玉だけが世間を見ている」
と言われたが、しかし親分という存在ではない。
何事かがあると、人々は范増のもとに訳を聞きにくる。
市井の智者というところかも知れない。

陳勝の乱が起ってから、范増の許に血気の若者が出入りしはじめている。地元を代表する父老ふろうと呼ばれる連中も同様で、居巣はどう動くべきかという教えを乞うたりしていた。
「しばらく陳勝のやることを見守っていたほうがいい」
范増は、そういう。
「范先生も老いたのではないか」
人々は、范増の落ち着きぶりに対して不安がったりした。
なかには、この范増の冷静さにあきたらず、大いに興奮して、
「彼らの多くは楚人ではありませんか。すでに楚ろおこすべく、立ち上がっているのです。醇乎じゅんことした楚軍と見るべきではないでしょうか」
われわれも坐視すべきではなく、従軍すべきだ、というのである。
「はたして醇乎とした楚軍であろうか」
范増は、くびをひねった。彼は陳勝の成功ぶりを細かく観察している。
(陳勝は本気で楚人を団結させるつもりがあるのかどうか)
たとえば亡楚の王の血統をひく者が、山野に隠れている。秦の役人たちは知らないが、楚人の中の消息通なら、それは何者でどこの野を耕している誰がそうだということは知っている。陳勝もそに気になれば捜し出すことは、困難ではない。
(陳勝が、それをやるかどうかだ)
と、范増はひそかに思っていた。
といって、范増は旧王家を復活させねばならぬと思うほどに時代おくれではない。
彼はただ楚人世界を大同団結させたかったし、楚人を集結させるためには核が必要だと思っていた。楚人の場合、亡楚の王の血流を立てて王として奉戴ほうたいすることが結集に有効であることを知っていたし、それをしない勢力は結局、楚人の支持を失うだろうと見ていた。范増によれば、秦を倒す者は楚である以上、楚人の支持を得ない者に、秦が倒せるはずがない。
(陳勝が楚王のすえを探すかどうか)
ということが、范増にすれば陳勝が成功するかどうかであり、もしそうでなければ成功もしない陳勝に在郷の子弟を送ってむざむざと敗軍の中でむくろをさらさせたくなかったのである。
2019/12/17
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