~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (七)
しかしながら、陳にいる陳勝はそのことを思いつきもしなかった。
かれもまたこれだけの版図と勢力を得た以上、一揆いっきまがいの雑軍のかしらでいたくはなかった。かといって、兵を吸収する段階において、自分を扶蘇ふそ 公子と言い、呉広ごこうをもって項燕であるとしていたことが、今では通らなくなっている。
いっそ、王を称したかった。
しんによって、王制は否定されている。しかしながら戦国の旧国の人々は秦の郡県制になじまず、むしろ課税の安かった王制時代をなつかしむ思いが強いために、陳勝がたとえ王になっても、それが反動的志向であるとは、秦の官吏以外、たれも思わなかった。
ただ、王は、民衆によって奉戴されなければならない。
彼は陳の民衆の代表者である父老たちを呼び、
「自分は、今後、どうすればよいか」
と、もちかけた。むろん、暗に根まわしはしてある。ともかくも彼らは口を揃え、
「将軍はみずから甲冑かっちゅうよろい、武器を取って暴虐の秦をちゅうし、楚の社稷しゃしょくをふたたびお建てになったのでございます。その功からみて当然、王になられるべきでございましょう」
と、言った。
こういう場合、この民族の習慣では、劉邦もそうしたように、自分は不徳でそのうつわではない、といったにったんは辞退するというのが型になっていた。
が、陳勝は一度で受けてしまった。このことは楚にそういう型がまだ中原から入っていなかったのか、それとも陳勝が育ちが育ちだけにっそういう型をたしなみとして身に着けていなかったか、おそらく後者であるにちがいない。
陳勝ははなばなしく即位した。
国号を「張楚ちょうそ」と称した。
「楚」
と称さなかったのは、さすがに陳勝もひるむところがあったのであろう。国号というのは、たとえば、いんしゅう、あるいはちょう、楚、さらには秦といったように、一字であるのが普通である。二字というのは、漢民族の正統の国ではなく、周辺のばん国が、中国に遠慮して── あるいは中国側が勝手に文字を選んで── つける場合が多かった。後代の朝鮮、吐蕃とばん南詔なんしょう、あるいは月氏げつし烏桓うがん大食たいしょくなどというものもそうであろう。

居巣の地でこれを聞いた范増は、
(王になったか)
いったんは驚き、
(陳勝もこれまでだな)
と、思った。
そのうち、南方の長江(揚子江)の下流の呉で項梁と項羽が旗揚げをしたと聞き、范増はその情報を集めた。
やがて、彼等が楚の名族項氏の出であることがわかった。
(これは、ものになるかもしれない)
と思ったのは、項氏ならば自分の意見が理解できるであろうということであった。草莽もうそうをかきわけてでも楚王の子孫を探し出し、それを推し立て、国号を「楚」とすれば秦を滅ぼす強烈な力を結集できるであろう。
── それだけで、秦は亡ぶのだ。
と、范増は思っている。
(項梁という男は、教えるに足る男か)
ということを知るべく、情報を集めた。やがて呉中にいたという行商人から、
── 項梁という人は文字もあり、賢者の意見をしずかに聞く人です。
ということを聞いた。范増はようやく腰を上げ、旅装をととのえて出かけた。
やがて薛という土地で項梁に会い、その参謀になる。
2019/12/17
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