~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十)
趙高には、函谷関かんこくかんの東の情勢は、ほぼわかっている。
しかし、
「土民が騒いでいるだけだ」
と、自他共に言い聞かせているだけで、どうしていいかわからない。趙高は、ほとんど生まれてこの方宮廷で寄生してきた。宮廷の政治や皇帝の操縦にかけては魔術的な能力を持っていたが、宮廷外のことはいっさいわからず、まして軍事がわかるはずはなかった。
事態は、日々に深刻になった。各地に流民が蜂起ほうきしては土地の地方官を殺し、親分を奉戴してそれに服した。法治による郡県制度を布いている新帝国の中で、前時代の封建制が、土地々々で復活した。
各地で陳王のように、にわか仕立ての封建領主が土をかぶった五月のたけのこのようにむらがり出てきた。
多くは陳勝に使者を送ってその傘下さんかに入った。傘下に入らない者は、その郷国で自立して趙王と称したり、魏王、あるいはせい王などと称したりした。
陳勝の軍隊は、さらに西進した。ついにという地まで迫った。戯は、関中への関門である函谷関に近い。
咸陽の人々はようやく目がめたように動揺しはじめた。
秦軍は次々に出発してゆく。しかし多くの地方で騒乱が起こっているため、函谷関を出ると各地に兵力を散らさざるを得なかった。細分化された軍は、小部隊ごとに咸陽に援軍を乞うた。
咸陽の軍部の中軸は混乱していた。皇帝がきざしであることを守って宮廷の奥から出て来ないために統率の中心的な意志が休眠状態にあり、このため有司ゆうしたちは前線から催促があるたびに兵を送った。やがて咸陽の町から兵士の姿が見えんくなってしまった時、市中の動揺が大きくなった。
「問題は、陳勝でございます。陳勝をたおせば枝葉しようはおのずから枯れましょう」
と、官吏たちは趙高に進言するようになった。かといって、陳勝を撃破するための予備兵力はほとんど無いと言っていい。
当初、趙高は、それでも放っておくつもりであった。ここで将軍を選んで派遣すればその者が大功をて、勢力を得、相対的に趙高の権勢がそれだけ滅殺されてゆくことになる。趙高は競争者の出現を欲しなかった。二世皇帝の胡亥に、戦いの深刻さを知らしめなかったのは、そのためでもあった。もし胡亥が危機感を持てば、直接将軍たちを招致し、直接命をくだす。皇帝と将軍たちが戦争を通じて一体化してしまう恐れがあった。
もっとも咸陽には、すでに将軍らしい将軍はすべて趙高に排斥はいせきされてたれ一人居なくなっており、この点は、趙高にとっての幸いではあった。
「戦いには良将が必要なのだ。見渡したところ、居ないではないか」
趙高は、官吏たちが進言してくるたびに、冷笑をもってむくいた。
しかし、何人かが声を揃えて言った。
章邯しょうかんがいます」
趙高は、その男を知っていた。しかしその職は武官ではない。少府という職にある財務官吏であった。章邯をした者は、そうではなく、章邯の家は元来武の家で、かれ自身、先帝の頃には軍人として働き、武功が多かった、という。
趙高は思案し、こころみに章邯を呼んでみた。
(わしに対してわずかでも不遜ふそんなそぶりを見せるようなやつならば、推すまい)
と思った。
2019/12/19
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