~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十一)
章邯は、中央の官僚の中ではたれよりもこの事態の深刻さを知っていたであろう。
彼の官職である少府というのは、全大陸の沢や池で淡水水産物をっている人民から税を取り立てる役所の長官で、このために地理に明るい。とくにこのたびの大反乱は沼沢しょうたくの多い土地においてもっともその勢いがさかんで、がまったく杜絶とだえてしまっているだけでなく、その方面の収税吏からの業務上の報告が、裏返せば戦況報告の実質を持っていた。この点、章邯は軍籍にある者以上にこの事態に通じ、どの地方が安静でどの道路が無事であるかという兵要地誌にまで通じていた。
(自分が行って平定する以外にない)
と、彼は、べつに気勢きおいたつことなく思っている。度量がひろく、決断の能力に富み、しかも気持ちの優しい男で、遠征軍の統率者として士心を得るという点でも、類のない資質を持っていた。
彼には友人も多かった。
友人たちの多くはしんの危機を感じており、章邯に対し、ぜひ君が将帥になって社稷しゃしょくを救うべきだと進めており、それらの中には幕僚や部隊指揮の能力を持つ者も多い。彼らは章邯が将軍になるなら命を呉てやってもいい、と言ったりしていた。
そこへ趙高から呼び出しが来た。友人たちが心配し、
「章邯よ、あなたはまさか子供っぽい正義感にとりつかれていまいな」
と、忠告した。
暗に、趙高のことをいっている。あの男に腹を立ててはならぬ、という。
「あなたの仕事は、軍を率いて陳勝をやぶり。秦を安泰にすることだ。宮廷の小人と決していさかってはならぬ」
さらに、言う。
「将軍が外征する時、何よりも大事な事は君側に疑惑を持たせてはならないことだ」
むしろ、趙高の機嫌をとっておけ、という。もしそうでなければ千里の外にあって、援軍の要請を拒否されたり、軍功をたてればたてるほどそねまれて身を危うくする、ということであった。
章邯は、その程度の芝居が出来る男だった。
彼は宮廷の一室で趙高と会った。
最初から温容で接し、しかも卑屈にならぬ程度にへり下り、趙高に圧迫感を与えたりはしなかった。ただ、困ったことに兵力がない。
「このことで、ぜひ趙高どのの御力を拝借せねばなりませぬ」
この態度が、趙高の気をよくさせた。
「どういうことかな」
趙高は、ゆったりとあごをひいて、章邯を見た。
章邯は、驪山りざん陵の工事や阿房宮あぼうきゅうの工事が、まことに先帝陛下の御遺業としていわば国家をあげての神聖事業である、とまじ言った。趙高は、内心驚いた。なにしろこの事業で数十万の人民を労役させていることが世の怨嗟えんさをまねき、国家を危うくしている、という意見が多く、そのことは趙高はよく知っている。
「本気でそう言うのか」
趙高は章邯の顔を覗き込み、やがて気を許したように、
かんよ」
と、言った。君は先帝陛下のお考えをよく知っている。天下の民をことごとく労役させ、これを逃れようとする者に刑罰を加えてはじめて民は法の恐るべきことを知る。民はやがて法になじみ、法にしばられることを喜ぶようになり、ひいては国家の安泰のもとになる。君は秦の法の原理をよく理解しているらしい、と趙高は言った。
(趙高とは、こういう男だったのか)
章邯は、内心、趙高を見直すというよりも、とまどうような思いを持った。人々は趙高のことを、先帝や二世皇帝に取りいた化物のようにいっているが、この肥った老婆のような感じの男は、存外、挙措きょそが温雅で、しかも言う事はひどく思想的なのである。もっともこの宦官かんがんは二世皇帝の師傅しふをもって任じているから、彼の教養がなみなみなものではないということは当然であるのかも知れない。
2019/12/20
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