~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十二)
(もしこの男、化け物であるとすれば、一筋や二筋の縄ではどうにもならぬ化け物だ)
趙高ちょうこうにすれば、章邯が戦場で大功をたてて声望があがることを恐れている。もっともそうなったとしても、非違ひいをみつけて勅命によって殺してしまえばそれですむが、ともかくも自分を怖れしめ、自分の意のままになる男に仕立ててしまうほうがのぞましい。このため、この座において、ときには威を見せ、ときには章邯の心をるような笑顔を作って見せた。趙高は、笑顔の悪い男だった。笑うと顔の皮がぬめつき、口もとに豚の黄色い脂肪を折り曲げたようなしわが出来た。章邯は、さすがに薄気味悪かった。
「なにかね、私にしてほしいというのは。──」
趙高が言ったとき、章邯は拱手きょうしゅし、なにぶん非常のときでございます、と言った。非常の時には非常の人の御力が要ります、その御力によって非常の措置を講じていただかねばなりませぬ、と言うと、趙高はひどく満足したようであった。
「どういうことだ」
驪山りざんにも阿房宮にも、大勢の刑徒が働いております」
良民も働いているが、刑徒も働いている。刑徒だけで二十万を越えるであろう。彼らに大赦令を出してもらい、罪を許し、武器を持たせ。兵として連れて行きたい、それ以外にこの状況下で大軍をにわかに編成する方法はない、と言った。
(罪人を兵に?)
趙高も、さすがにこの案には驚いた。軍旅の途上、罪人どもがほこさかしまにして何を仕出かすかわからず、よほどの統率力のある将軍でなければ、彼らを率いることは出来まい。
「いいだろう。内奏してみる」
と、趙高は言った。失敗してところで、目の前の男がひどい目に うだけのことである。
趙高はすぐさま二世皇帝の胡亥に謁し、この案を自分の案として述べ、さらには章邯を推した。
なにしろ軍事のことだけに、文武の百官を集めて彼らから十分意見を出させねばならない。いくさの場合、それが慣例で、いかに胡亥でもきざしとして隠れているわけにはゆかない。
胡亥は、型どおりに百官を召集し、意見を出させた。このとき胡亥はあらためて趙高の偉大さを知った。趙高が言った通りに事が進み、趙高が予見したとおりに章邯という男が進む出て来たときばかりは、胡亥は魔法でも見物するような面白さを感じた。しかも章邯は趙高がかねて献策したとおりのことを言上したのである。胡亥は名状しがたい愉悦を覚えた。皇帝たる者のよろこびはこういう「情景に接するときであろう。数多くの人間が、たとえば満天の星がの上を動くように秩序正しく動き、発言者も、皇帝の意表をくようなことは言わない。発言者は皇帝が先刻承知のことをこころよい音声をもって言うのである。すべてが、音楽に似ていた。胡亥は喜んでそれを採用し、あわせて大赦令を出した。

ただし、当の章邯はここまで漕ぎつけることで、精魂が尽きる思いがした。国家が健康であればこのような馬鹿なことは有り得ないであろう。章邯は、平和な時代なら文官でいたかった。ひょっとすると戦場で死ぬかもしれない役目を引き受けるのにみずから奔走し、擬態ぎたいを作って趙高のような男にび、国家が与えてくれるはずの軍隊も自分で作り、補給その他の後方組織も諸官庁を駈け回って自分がつくらねばならぬというばかなことがありうるであろうか。しかしそれをしなければ、しんの亡びは眼前に迫っている。
章邯は、咸陽かんようの兵器庫をからにして、人夫どもに戎装じゅうそうをさせ、兵器を与えた。軍の強弱は各級指揮官の能力によって決まる。章邯は、卒伍の長にいたるまで、すべて秦の歴戦の兵士を昇格させて任命した。このためこの一軍は決して烏合うごうの衆ではなかった。
始皇帝以来、秦軍の色は黒である。せいも、士卒の戎装もことごとく黒い。彼等が黒々と地を覆って咸陽を出、嶮路けんろを経て函谷関かんこくかんに向かったときは、道にも、みねにもはるかに黒雲が渦巻うずまき進むかと思われるほどに壮観であった。
2019/12/21
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