~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十三)
この大陸にあっては、王朝が衰える時、この時代 ──その後の時代もそうだが── 大陸そのものがるつぼ・・・になってしまう。
流民のめざすところは、理想でも思想でもなく、食であった。大小の英雄豪傑というのは、流民から推戴された親分を指す。親分 ──英雄── は流民に食を保障することによって成立し。食を保障できない者は流民に殺されるか、身一つで逃亡せざるを得ない。
食は、掠奪りゃくだつによって得る。たとえば百人の流民のかしらがある村を襲って食糧を食い尽くせば、食い尽くされた村は一村ごとに流民と化し、他村を襲わざるを得ない。襲い襲われてゆくうちに流民の人数はふくれあがるが、たかだか百人程度しか食わせられない親分は、四方をさがして千人を食わせる親分を見つけ、そのもとに流民ごとなだれ込んでゆく。さらには千人の規模の親分は能力以上にふくれあがった流民をまかないきれない場合、万人の頭のもとに合流する。このため、能力ある英雄の許には、五万十万という流民 ──兵士── がたちまち入り込んでしまい、一個の軍事勢力を形成する。
二十万、五十万といったような流民の食を確保し得る者が世間から大英雄としてあつかわれ、ついには流民から王として推戴されたりする。
このため、巨大な流民を吸収しようとする者はいち早く穀倉こくそう地帯を抑えるが、陳勝ちんしょうの場合、いよいよふくれあがってくる流民を食わせるには、陳の田園だけでは賄いきれなくなった。もし、傘下さんかに集まった流民軍をえさせたりすれば、彼らは陳勝を打ち殺して他の地方の大流民団の親分のもとにはしるだけであり、食わせるかどうかということとは、陳勝が、あらゆることに優先させねばならない懸念けねんであるはずであった。
が、陳勝の頭にはそれだけの逼迫ひっぱく感があったかどうか、疑わしい。
彼の幸運は、たまたま穀倉地帯で挙兵したことであった。さらにはわずかに転戦するのみで陳というより豊富な穀倉地帯を得た。
── 陳ならば食える。
ということは、たれもが知っていた。その情報が四方の流民に飛び、あらそって陳へ移動し、陳勝の傘下に入った。陳勝の徳望によるものではなく、食ということについての陳地方の魅力が彼らを吸引させたといっていい。が、膨張し過ぎた流民団のために、陳勝はさらに新たな穀倉地帯を求めるべきであった。そのことを怠け、みずからを高くして王を称してしまったことは、范増はんぞうの観点をいても、問題があったと言っていい。
もっとも、陳勝は、食をさがすためにまっらく怠けていたわけでもなかった。
「穀物のくらという倉をおさえよ」
と、その幕下の諸将を派遣し、それらの倉を守る秦軍と戦わせてはいた。ただ、みずから兵を率いて戦わなかった。
この大陸には、この時代 ──これ以前もこれ以後もそうだが── 国家が管理している穀物倉というものがあった。それらは、水運の便のいい都市に設置されている。
倉といっても、地上の建物ではなかった。大地を広く深く穿うがって穴をつくり、穴の内壁に防湿その他の工夫を「こらしてここへ穀物をほうりこむ。その規模は、一つの穴だけでも何万人が何ヶ月も食えるほど大きいものであった。それらの穀物は租税として取りたてたものであるだけに、むろん私有のものではなく、国家のものであった。たとえば、後世、とうの時代、首都長安ちょうあん付近(関中)は不作のために穀物が乏しくなれば、皇帝が百官をひきい、長安を留守にしてその穀物倉まで移動してそこで数ヶ月も食うのである。宮廷の人口だけでも数万を数えるし、百官は家族を含めればゆうに何万という人数になるであろう。 都市そのものが穀物倉にむかって移動するようなものであった
それらの倉の中で、陳から遠くもない土地にあるのは、滎陽けいようの穀物倉であろう。
2019/12/21
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