~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十四)
滎陽けいようというのは、現在の鄭州ていしゅう市の東方にある小さな城市である。ここから遥か西方の首都咸陽にむかって水運の便があり、主として南方からの租税が河川や運河をつたってこの滎陽に集められ、いっやん倉に放り込まれて逐次、西へ運ばれて行く。この滎陽をれば、陳勝は傘下の流民の飢えをまぬがれさせることができたはずであった。
「滎陽を奪らねば、どうにもなりませぬな」
と、呉広ごこうが進言したのは、陳勝軍が、はちきれるほどに流民をかかえすぎたあとで、彼らに急場の飢えをしのがせるには、やや遅かった。流人たちの間にはすでに飢えを訴えて不満の声があがりはじめていたのである。
「では、君が行ってくれるか」
陳勝はもともと態度が傲岸ごうがんな男であったが、挙兵の時の仲間である呉広には格別な態度で接していた。ちなみに陳勝が王になったとき、呉広に仮王という称号を与えた。
呉広は、陳勝とは違い、挙兵の早々、かつての仲間を大切にするということで評判のいい男であった。しかし、滎陽攻略へ出発するころには、呉広も昔を忘れて驕慢きょうまんになっている、などという陰口かげぐちが出はじめていた。要するに、
── ろくに食わせることも出来ぬくせに、仮王などと、おのればかりが大それた位にきおって。
と、いわば食についての不満から出た悪声であろう。繰り返し言うが、食が英雄を成立させた。
不幸にも食わせる能力を失うとき、英雄もただの人になった。この点、人々は容赦がなかった。担ぎ上げた男を地にたたきとした。
呉広は、ようやくそのことに気づいた。
大軍を率いて滎陽を包囲した。
この時期、秦の先帝時代からの丞相じょうしょう李斯りしは、まだ趙高によって殺されるにいたっていない。
李斯の子に、李由りゆうという者がいる。李由は滎陽が所在する三川さんせん(河南省)の長官で、彼は諸方に乱が起ると共に自分の郡の人民をよくしずめ、みずから軍隊を指揮し、滎陽にこもって善戦した。
このため軍略の素人しろうとの呉広は攻めあぐんでしまった。流民軍は勢いに乗ったときこそ、烈風の日の野火のびのようにさかんで、正規軍以上の強さを発揮する。しかし敗勢とまでゆかずとも、戦いに利がなくなりはじめると、たちまち動揺した。呉広は素人だけに、将軍ならたれでも心得ているこういう場合の統制の手をまったく知らなかった。
これとは別に、陳勝に命じられて呉広と共に陳を出発した別働の大軍があった。
その兵力は呉広軍よりはるかに大きく、数十万であり、陳勝の配下では第一軍ともいうべき部隊だった。その目標は長躯して函谷関を破り、すすんで関中かんちゅうに入るにある。一挙に秦都咸陽をくつがえそうというもので、この大作戦を志向したことによって、陳勝は単なる流族の親分の域を脱し、秦帝国に対する最初の挑戦者という名誉を、同時代さらには後世において持つことが出来た。
その総司令官は、周文しゅうぶんというもはや老人と言っていい年齢の男であった。周文は流民出身ではない。陳勝が流民軍とともに入城した陳の町にもともと住んでいた人物で、陳の父老ふろうたちの尊敬を受けていた。
2019/12/22
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