~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十五)
周文は、学問を好み、物事にも明るかった。若い頃は山っ気もあり、みずからの才能を売るべく春申君しゅんしんくんの食客になったりしたが、なによりも彼の自慢はいまは無い楚の国の名将項燕こうえんに仕えて諸方に従軍したという履歴だった。
── 項燕将軍のことを聞かせて欲しい。
と、町の若い者が来ると、項燕の人柄やその兵の進退の巧妙さを、一晩でも二晩でもまずに話した。「わしの一代の幸せは、なんといっても、この目で項燕将軍を見たことだ」とふたこと目には言い、話の中にいきいきと情景を入れ、ついには彼自身が項燕将軍にったかのようにして話した。すべてうそではなかった。かつての日、彼は項燕将軍の帷幕いばくに在り、項燕には日常接していた。ただし軍人としてではなく「視日しじつ」としてだった。視日とは、軍営にあって日や時の吉凶を占う官である。
つまりは、占師であった。
陳勝の軍には、秦の降伏兵がいあたが、しかし司令官がつとまるような軍事の専門家がいなかった。陳勝はこの周文のうわさを聞き、呼びつけて、将軍になる自信があるか、と聞いた。
(やって、やれぬことはあるまい)
若い頃、項燕のやり方をまぢか・・・で見て来た、という履歴上の自信と、たとえ占師であっても、項燕に近侍してその息づかいまで知っているのだということが、歳月を経るにつれ、形が変わって軍人であったかのような自負心になっていた。
「やれるでしょう」
と、周文が言ったのは、若い頃の山っ気が、老いた血の中によみがえったのかも知れない。陳勝は喜んでこのもと視日に将軍の印綬いんじゅをさずけ、陳勝軍の主力とも言うべき大軍をあずけ、遠く秦の首都を目指して出発させた。
周文は、かれ自身、そう信じていたとおりに、十分に将才はあった。ただ、彼の配下の大小の指揮官が、根を洗えば各地の流民の親分で、かつての項燕の軍隊のようによく訓練された玄人くろうとではなかった。この点、将軍よりはるかに難しい条件でその職をつとめたことになる。
周文はよくやった。これら玉石の混じり合った雑軍をなんとかまとめ、あるいはおどし、あるいは賺すなどしてついに函谷関にせまり、さらに秦の守備兵を追ってかんの内側に入った。みごとな成功であったといっていい。
しかしそのとき、天地が晦冥かいめいしたかと思われるほどに関内の風景が一変した。眼前の山もやまあいもあるいは雲までも黒くなるばかりに秦の大軍がやって来た時、周文の大軍はいっせいに息を忘れた。同時に士気を失った。敵の将は、章邯であった。
咸陽かんようから急行軍して来た章邯の軍も、内実、兵卒は刑徒であるという弱味があったが、しかしそのよく統制された軍装と、その美しさ、またはつづみかねの音律の正しさ、あるいはのような強力な飛び道具を多数揃えているという兵器の優越といった多くの利点を持っていた。そのうえ先鋒せんぽうは秦の正規軍で編成され、巨大な鉾のように鋭かった。この先鋒によって周文の先鋒は瞬時にして撃ち破られた。章邯は緒戦の成果をすかさず拡大し、周文軍を圧倒した。周文の軍は東に向かって敗走し、曹陽そうよう(河南省)まで逃げ、そこでかろうじて踏みとどまり、ともかくも二ヶ月余、防戦した。二ヶ月余も維持し得たのは、周文の力によるところが大きかったであろう。が、さらに章邯に攻めたてられ、潰乱して澠池めんち(河南省)にいたり、そこで一軍が四散し、周文は自らけい動脈を切って死んだ。
陳勝の軍の最初の敗戦と言っていい。
2019/12/22
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