~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 人 の 冠 (十六)
この間、陳勝ちんしょうは陳の城内に急造の宮殿を構え、腰を据えたまま動いていない。
流民たちの気持が、陳勝に対して冷たくなりはじめていた。そのうち、滎陽けいようを包囲中の呉広ごこうが、その配下の将軍に殺された。理由らしい理由はない。別の方面にいる周文の軍が章邯しょうかんしん軍に圧迫され続けているため、呉広の滎陽包囲軍は孤軍同然になり、章邯のために背後をかれまいかという危惧きぐで、陣中は慢性的な恐慌きょうこうが人々を支配し、将軍たちは物事に激しやすくなっていた。諸事うまくゆかなくなった理由を、人々は呉広の無能に帰した。どうやら将軍たちが密議して呉広を殺したらしく、それも陳にいる陳勝の内諾を得ているようでもあった。将軍たちは呉広を殺した後、その首を陳勝の許に送っており、さらには殺した将軍の代表である田蔵でんぞうが陳勝によって令尹れいいんという亡楚ぼうその大臣の職名をさずけられているのである。陳勝は、かつての仲間の呉広にき、この時期にはうとましくなってしまっていたのに相違ない。
陳勝の末期、陳の町に、一人の農夫がやって来た。陳勝が作男さくおとこだったころ ── といって昔のことではなくほんの去年までのことだが ── の相棒で、兄弟のように暮らしていた友人だった。
シエー(陳勝のあざな)に会いたいんだよ」
と、彼は宮門の前で、大声で叫んだ。この男にはべつに欲得があるわけではなさそうで、ただ懐かしさのあまり訪ねて来たことが、態度によくあらわれていた。が、宮門の衛士が中に入れようとせず、しつこく門扉もんぴにすがりつくこの男を、力ずくで追っ払った。農夫はあきらめず、陳勝が行幸するのを、路傍で毎日待った。やがて陳勝が車騎を従えて外出した時、農夫は車の前に飛び出し、
「シェ!!」
と、なつかしそうに叫んだ。陳勝は一瞬とまどったが、思いなおして、この男を宮殿に連れ帰った。
男は楚の田舎ことばまる出しで宮殿の美しさに感嘆し、しきりに、
夥々かか、夥々」
と、大声で言った。楚では、中原ちゅうげんというのをという。夥夥とは、すばらしい備品や宝物がおびただしくある、ということである。男は宮殿を引き上げてから、毎日、町中に自分が陳王と古い友人であるという事を触れまわった。疑う人々があると、「うそなもんか」と、陳勝が作男の頃は怠け者であったよ、というたぐいの罪のない話をしゃべりちらした。陳勝の吏僚がこれを聞き、
「あれでは、王の威厳もななにもあったものではございませぬ」
と言ったために、陳勝はこの男を捕え、斬り殺してしまった。
この事件以後、陳勝をたすていた古い友人たちが、夢からさめたように興を失い、去る者が多かった。
2019/12/22
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