~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (七)
数日して、呉中城の内外に、軍勢が満ちた。戦場から項羽が戻ってきたのである。
その夜、宴会場に、項羽が現れた。
宴がたけなわのころ、入り口に人々がざわめき、やがてそれらを押しわけるようにして巨漢が入って来た。大きな船が押し込んで来たようで、男が入ってくると、まわりの人々は、へさきに群れる無数の波頭なみがしらのように小さく感じられた。男は入り口のあたりでしきりに冗談を言い、哄笑こうしょうをあげた。陳王の勅使・・である召平が主賓であるというのに、かぶとこそ脱いだが、軍装のままであった。やがて男は項梁のしばに近づくと、
── 叔父上、ただいま戻りました。
と、うやうやしく一揖いちゆうした
召平は、主賓であるため、項羽が挨拶に来るのを待っていればよい。が、項羽がなかなか来ないために、召平自身が近づいた。項梁が驚き、あわてて項羽を紹介した。項羽は、赤い口をあけた。
「やあ」
一声、そう言っただけである。
召平は、よろけるような衝撃を受けた。召平は名家に育ったが、長じて奇を求め、好んで無頼漢や盗賊などと付き合い、無作法者には馴れきっている。しかしこれほど痛烈な無作法というものに出くわしたのは最初で、とっさにを失った。
が、項羽はそういう召平をすら無視し、肉を掴んでは口に入れ、骨は窓の外へ投げた。窓の外にへ投げた。窓の外に、くぐもるような動物の声が聞えた。
(虎か。・・・)
と思ったのは、項羽の印象から連想してしまったのである。
やがて、犬であることがわかった。
「犬を・・・飼ってござるのか」
召平は、かろうじて言った。
「え?」
項羽は召平に気づいたように視線を向けた。
「飼っておりますが?」
ごく無邪気な表情ながら、それがどうしたか、というふうに反問の顔つきになった。召平はあわてて手を振り、いえ、飼っておられればそれでよいのです、と言った。
項羽は、無言でうなずいた。問答はそれで終わりである。召平はあとで聞いたことだが、項羽の犬は匈奴きょうどが羊番に使う犬とかでやまいぬというにちか、軍隊で先頭を駈け、人を食い殺したことが何度かあるという。
(この男は、粗暴さをてらっているのか)
と思ったが、そういうふうでもない。
ただ召平は、項羽の帯剣には、礼状の感覚として、やりきれなかった。その時代、礼は後の儒教時代ほどにやかましくはないが、公式の酒宴の作法というのは相当煩瑣はんさなものであった。どういう理由があっても食事の場での帯剣は許されない。
(ひとつ、いやがらせを言ってやろうか)
それには、勇気がる。項羽そのものがやまいぬかもしれないのである。召平は大きく息を吸い、
どの、楚人の礼では、宴席で剣を帯びるのでござるか」
そういうと。項羽は太いくびをねじって召平の顔をじっと見、やはて質問の意味がわかると、踊りあがって剣を外した。赤面し、ひどく可愛い顔になった。まだ二十四歳なのである。
「これは申し訳ござらぬ」
項羽が素直にあやまったとき、召平は、
(さすがに項家の子だ)
と、あざやかな印象を受けた。
そのあと項羽は剣をかたわらの鐘離昧に渡した、渡されて、鐘離昧は不快げな色をうかべた。鐘離昧は小姓ではない。ほんのこの間までは流浪の庶民であったかも知れないが、今は、項梁・項羽の下で一軍の将をつとめている。その体面がある。体面のために人を殺し、敵にはしり、場合によっては自刎じふんもするというこの大陸の習慣の中にあって、項羽は無神経すぎると言えるかも知れない。
一方、項梁は召平のそばに来、
「今後とも、せき(項羽の名)をお教え下さい」
と、鄭重に礼を言った。さすがに貴族のすえだけあって、表情まで温雅につくっていた。
「今日、彼が遠くから帰って来たのを、途中で使いを出し、ともかくも急ぎ駈けつけよ、と言ったために、馬から降りたままの姿でやって来たのです」
と、剣の一件について、項羽のために弁解した。むろん半ば本当で、半ばうそだった。項梁は、項羽に対し、陳王の勅使が来ている、宴席に出よ、とあらかじめ伝えてあったのである。勅使と宴席ということであれば当然装束を変えねばならぬという作法ぐらいは項羽は知っている。項梁も項羽の姿を見て驚いたが、しかし項羽の本心はよくわかった。項羽にすれば陳勝など王として認めぬ、それが勅使をよこすとは何事か、ということだったのであろう。
(召平もなかなかやる)
と、項梁は思った。項羽が軍装という非礼でもって召平に面当つらあてしたのを、召平は屈せずに帯剣をたしなめた、項羽は召平のそういうあたりが気に入って、気持ちよく剣を外したのにちがいない。
・・・・・・
が、召平は項羽のべつな面を見た。
(項羽という男は、おのれ一個の力量をたのみ過ぎ、配下の諸将をうまくぎょそうとはしない男らしい)
そのことは、鐘離昧とのとっさの一件で察した。
宴が果て、召平は与えられた部屋に戻って、素裸になった。かわやへは素裸でゆくのが習慣だった。厠の踏み板の上に箱があり、乾したなつめの実が盛ってある。召平はその棗を取って鼻の両孔に詰め、口で息をしつつ、しゃがんだ。目の前が、窓である。無数の星が出ている。
(さて、召平よ)
と、自分に質問した。
(あの項梁や項羽が天下を取ると思うか)
この問いで頭の中をきまわしてみたが、何一つ答えが出なかった。この乱世にあっては何が起こるかも知れず、人間の予測など不可能で、すべては運命ではあるまいか。
2019/12/29
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