~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (八)
この夜、宴が果てた後、第館だいかんのあるじである項梁は、庶民の衣裳に着更きがえ、星空の下の町へ出た。たれも、この土地の王ともいうべき項梁がこんな夜更けにひとり町を歩いているとは思わない。この県城の中にも町のがあって、里ごとに門がある。項梁の女の家は第館が所在する里にあるために、彼は里門にひっかかることなくそこへ行くことが出来た。ただ、暗い露地路へ入らねばならない。人間一人がやっと通れる通路は、突き当たったかと思うと、小枝をのばすようにして続いている。
項梁は手さぐりで古びた板戸をみつけると、指頭でこつと叩いた。
「おれだ」
と、言うと、女は、この時刻でも起きていたのか、すぐ内側でさんの鳴る音がして、項梁を中へ入れた。
女には、かすかに匂いがあった。
梅の青い実を爪の先でぎ取ったような匂いで、狭い室内にこもっている。項梁は、この匂いが好きだった。幼い頃、母親の肌でなじんだ匂いなのか、それとも母親の死後、育ててくれた乳母の匂いなのか、ともかくも、項梁にとって、わずかに幸福だったと思える幼い頃の記憶と重なっている。
女は、項梁がかつてたい県を過ぎたとき、まだ少女の身で市に売られていたのを、項梁に買われた。項梁が呉中に住むと、城外の畑を買い、女に与えた。畑はもとの地主が小作をしてくれるから、女が自分で鍬を持つ必要はない。しかしそれでも、女は草取り程度のことをしているようであった。
女はさといというほうではない。無口で、何を考えているのかわからないし、常に無表情だった。それでも項梁が訪ねて来ると、戸を開けた瞬間、小さな歯並びを見せて笑った。項梁は、その笑顔も好きだった。ただ女の笑いの貯えはそれだけで尽きるのか、あとは小壷のように無表情になった。項梁は女のそういう点も、嫌いではない。
信じ難いほどのことだが、女は項梁を旅の商人だと思っている。項梁が県令の首をねて呉中県を、さらに会稽かいけい郡を略取してその郡守になっているなどとは、彼女は知りもしないし知ろうともしないのではないか。
(それでいい)
項梁は、いつもそう思っている。男と女のかかわりというのは、家をなす気持ちのない項梁にとって、これがいちばん望ましいかたちであるらしい。もともと項梁という男には、つねに旅人の匂いがしていた。
女は旅人として項梁をとらえているし、いつか旅に出、またいつかかえってくる男としてしか、項梁をとらえていない。あるいは項梁という男の本質は、旅人というものではなかったか。
項梁は、女といるとき、他愛もない冗談を言って、自分だけが笑った。そのあと、ながい時間をかけて女を愛撫した。
項梁が、精をもらす気配をしめしたとき、いつものことながら、女は、
「・・・待って」
と、呼吸をしずめ、小さな尻をたかくした。
「よろしゅうございます」
と、息を詰めた。たねを宿そうと努めているようであったが、項梁にはそれがなかった。
そのあと溶けるように眠った。いつもなら、あくる日の夕刻までごろごろしているのだが、この日、夜が明ける前に起きた。横で眠っている女をゆり起こし、
「また、旅に出る」
と、言った。
女は、寝覚めの悪いほうだった。とこの上でぼんやりとすわって、項梁を不思議そうに見ている。
「もう、夕方ですか」
「いや、逆だ。やがて明けがただ」
項梁は、黄金のつぶの詰まった小さな革袋を女のひざの上に載せた。ひとには見せるな、と項梁は言った。うわさが立つと賊が女を殺して奪ってしまうおそれがある。項梁はそのあと、城外の畑を小作してくれている農夫の名を繰り返し教えた。教えられなくても女はよく知っていた。
「あれは楚の遺臣で、信頼できる男だ。おれがもし三月経っても帰らなければ、その男を頼れ」
と言い、床の上のきんを拾って、まげ・・に結びつけた。
「こんどは、どちらへいらっしゃいます」
女がいつになく聞いた。
「北だ。長江をわたる」
「まあ、長江を。──」
べつの国へ行くとゆうことではないか。
「── いつ」
帰るのか、と聞いた。
「天下がしずまれば帰って来るだろう」
女は、立ち上がって板戸を開けた。項梁はその戸の隙間からすり抜け、夜明け前のやみの中に消えて行った。ついに項梁は、この露路の奥に還ることがなかった。
2019/12/30
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