~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (三)
項梁こうりょうの軍はいよいよふとる一方で、とりあえず根拠地としてかひこうりょう(江蘇省)を選んだ。
下邳は、泗水しすいに面している。今日なお邳県という名でこの都市は残っているが、春秋・戦国のころに最も栄え、邳国の国都として繁栄を誇り、秦になって県城」にんった町である。
名邑といっていい。この時期、劉邦りゅうほうに属してのちその謀臣となるにいたる作戦家の張良ちょうりょう(字は子房)は、この町にゆかりがある。かんの貴族であった張良はかつて秦の始皇帝を殺そうとし、力臣をやとい、百二十きん鉄椎てっついをもって始皇帝の車をとうと企て、博浪沙はくろうさにおいて襲撃してみたが失敗した。張良ははしってかくれ、名を変えてこの下邳に潜居し、町のやくざ者などと付き合っているうちに、隠士黄石こうせき老人に会い、兵法の書を授かった。
むろん、項梁はこの時期、張良という恐るべき作戦彼家の名も存在も知らず、それが劉邦の幕下にいてのちに項羽を苦しめるなどということは、知るよしもない。
項梁が下邳を本営にしたときに、おどろくべき情報を得た。
「陳勝が大敗し、行方も知れない」
という。
「陳王の軍を砕いたのは、秦の章邯しょうかん将軍でございます」
と、報告者は言ったが、項梁には章邯の名などどうでもよかった。陳勝こそは亡楚の代表者になっている。国を「張楚ちょうそ」とし、項梁を上柱国じょうちゅうこく (宰相)に任命したということで、項梁にとってはまだ謁していないとはいえ、主君といってもいい。もっとも上柱国の任命も浪人者の召平しょうへいの策略で、当の陳王自身も知らないのだが、項梁にとってはどちらでもよかった。やがては合流しようと思っていた陳王とその勢力が消滅してしまったということのほうが、事実としてはるかに大きい。
(どうすべきか)
と、項梁はかつての県令の殿舎だった建物の奥でひとり考えた。
が、結論を得ない。項梁は知恵ぶかい男手はあった。しかしとっさにかん・・でもって機微に結論を出すたちの頭脳ではなく、長い思考の経過を必要とした。ときにひねもす思案している。そういう場合、一見怠け者としか見えないようなていをとった。陽が高くなるまで朝寝をしたり、日中も尊大の上に丸太のようにころがって、睾丸こうがんわしづかみにしては伸ばしたり、ときに一人で哄笑したりした。見様によっては痴愚ちぐとかわらない。
そのうち日が過ぎた。相変わらず陳王の生死がわからない。やがて陳王のかつての配下だった秦嘉しんかという男が、景駒けいくという人物を立てて楚王にした、という情報が入った。
そのとき、項梁は、
「陳勝は、その連中に殺されたな」
なんとなく思った。
(陳勝が死んだとすれば、おれが亡楚の代表者か)
項梁は、そう考える。それを世間に公認させるには百戦を経なければならないが、項梁はともかくもそう考える。世間に認めさせる道は一つしかない。秦の正規軍と決戦してこれを撃破することであった。
── 戦って勝つ以外に、志を天下に認めさせる方法はない。
項梁も、そのことはよくわかっている。
しかし眼前の事象にも捉われざるを得ない。
情報によれば、「楚王」をかついでいる秦嘉軍は方与ほうよ(山東省)やら定陶ていとう(山東省・現在、定陶)やらのあたりで流動して土匪どひ
(その秦嘉とやらいうやつを討つのか)
項梁は考えた。本来なら秦軍こそ共同の敵で、各地の流民軍は互に滅秦の同士として結束すべきであったのだが、項梁には、
── 楚王をそうむやみに称されては困る。
という強烈な思いがあった。景駒なるえたいの知れなぬ者を楚王として世間が認めてしまえば楚の「上柱国」である項梁はその傘下さんかに入らざるを得ないのではないか。
項梁は決心した。黥布げいふに討伐を命じ、命ずるにあたって、
「兵が足るまい」
と聞くと、黥布は大丈夫です、と言った。かつての陳王の傘下にあった大軍が四散して無数の鼠賊そぞくになり、あちらこちらの農村にもぐりこんでかろうじて食っている。彼らは身を寄せるべき人を探しています、それらを糾合してゆけばたちまち大軍になるでしょう、と黥布は言う。黥布ならずとも、、たれでも考えつく思案であったが、しかし、項梁はこの乱世の道理に気づくことが黥布より遅かった。
(なるほど、そういうものか)
項梁は内心思い。顔をあげて、「自分もそれを考えていた」と言い、そのあと急ぎ檄文げきぶんを書いた。項梁の思案は、いつも襲い。
── 秦嘉は敗残の陳王に背き、他に奔って勝手に楚王を立てた。大逆無道と言うべきであった。予は天に代わってこれをちゅうする。よろしく義士は予の旗の下に参集せよ。
というものであった。これを四方に飛ばし、かつ黥布を派遣軍の先頭にかかげてゆけば、かつての陳王傘下の敗残兵はことごとく集まってくるに違いない。檄文における大逆というのは王に背いたものを言う。陳勝というかつての農民は、王を称してわずか六ヶ月に過ぎなかったが、項梁はこの文章の中で、累代王朝をつづけてきた王であるかのように陳勝を尊び、尊ぶことによって、秦嘉や景駒の徒を謀反人として位置づけた。この論法は昔からこの大陸において行われてきた檄文の筋立てで、項梁はその型をまねただけであった。
(陳勝は、死んで尊貴になった)
と、項梁は思った。
まず最初にちあがって反秦の反乱を天下に誘発させた功の大きさははかり知れないが、さらには、敗亡してもなおその名前の利用価値がこのようにあるのは、陳勝の力量ではなく、時運であった。死んで項梁がこれをかつぎ、仇を討つというのも陳勝の力量以外の時世の作用であった。
2020/01/02
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